直線でも四角でもないもの。例えばシュタイナーの語り口調
長いことドイツで生活していて感じることの一つに、ここにあるのはほとんどと言っていい程直線だと言うことです。
丸みを帯びた波打つような流曲線がないのです。
建物を見ても角張っているものばかりです。石造りということが原因しているという人もいますが、北ドイツのリューベックにあるホルステン門をみると、この建物は例外的にたっぷりと丸みを帯びています。石でも作ろうと思えばできることなのですから、原因は素材が石だ殻とは言えないと思います。
ヨーロッパには古くは木で建物が造られた歴史があります。ソロモンの神殿は木造だったと読んだことがあります。見てみたかった!!
ギリシャの神殿はすでに石造りですが、木造を模した物だという説もあります。作られたのは石ですが精神は木だったのかも知れません。
ギリシャで彫刻を見たとき、服から作られるヒダの線の動きがとても印象的でした。まるで筆で書いたひらがなの曲線のようだったのに感動したことがあります。よく似た彫刻でもローマ時代にはもうその流線の面影は無くなっています。とても硬い線でした。
音楽も私の感覚からすると直線の組み合わせでできているのです。あたかも物差しと三角定規で作ったような直線の集まりだと言ったら言い過ぎでしょうか。
音楽の歴史を遡ると、グレゴリオ聖歌と呼ばれる音楽には曲線を感じる物がありますが、ルネッサンス以降の音楽からは直線の組み合わせになってしまいます。グレゴリオ聖歌は言葉を歌うものでそこで生まれた装飾音が曲線的な流れを生んでいますが、ルネッサンスに入ると器楽曲が主流になってゆきます。それに伴って音楽が直線に変わるようです。
そんな中で私の気持ちを和ませてくれるのはシューベルトの音楽です。歌曲の王と言われていますから、たくさんの歌がつくられています。しかし彼の音楽の中に曲線を感じるのは主に器楽曲です。
なめらかとか、波とか、和むという言葉に感じる響きがシューベルトの音楽から聞こえてきます。もしかするとこの音楽から感じられるものが唯一曲線のなめらかさかも知れません。一筆描きのようにです。
シューベルトのピアノ連弾曲には好きな物がいくつかあって、D951という番号のものは特にお気に入りです。その曲の入りが全くもってなめらかなのです。よくこんなふうに、何もないかのように、自然に、なめらかに、音楽を始められるものだと感心してしまうのです。サーカスで、綱渡りをするピエロのようだと表した人がいました。そんな軽やかさもあり、バランスの良さがあり、普段ヨーロッパの音楽からは聞けない世界が聴かれるのです。
いま私はシュタイナーの翻訳に挑戦していることは何度か書きました。もう何度書き換えたことかわからないほど、文体に苦しんでいます。
実はシュタイナーのドイツ語はドイツ人にはとても読みにくいドイツ語で、私がドイツ語でシユタイナーを読んでいると「お前は本当にこの文章が理解できるのか」と目を白黒させながら私の顔を覗き込んできます。「シユタイナーはなんでこんな言い方をしなければ喋れなかったのかわからない」とため息混じりです。
日本語に置き換えられてしまったシユタイナーは、原文で読み慣れている私の感覚からするとお行儀の良い知的な学問的な文章です。もちろん翻訳ですから分かりにくいというのはつきものなので、そのところを差し引いて言っています。ある程度普通の知識人が喋っているようで、シユタイナーの語り口調の持つ不思議さは消えています。
シュタイナーの語り口の不思議さはどこにあるのかというと、決して直線ではなく曲線的に語ることなんです。紆余曲折させながら一つの文章に仕立てる名人と言ってもいいかも知れません。直線でしか考えられないドイツ人には、こんがらがって、蛇がとぐろを巻いているような曲線的語り口調が苦手なのだと、最近になって合点しました。
そうだったのです。
シユタイナーはドイツでは珍しい曲線志向の人だったのです。曲線的な動きを持つ語り口調の名人だったのです。ドイツ人が「読めない!!」と匙を投げるのは無理のないことだったのです
ここからまた新たな挑戦が始まった気がします。