仏像と純音楽
耳の人間と目の人間とがある様です。もちろん境界線など引けないでしょうが、私は耳の人間を自負しています。
真似事で絵を描いていた時期もありますが、やはりどこか他人事で、身が入らず長く続くことはありませんでした。
また絵画芸術から切羽詰まったものを受け取ることもないので、美術館に自から行くことはなく、面白い催しがあるとは聞いてもほとんどがおつきあいで行くだけです。正直にいうと絵を見ていてもすぐに飽きてしまうのです。
本当に絵に関しては描く方も見る方も才能がないのだと我ながら呆れています。要するに絵音痴なんです。
耳以外は全くダメなのかというと、仏像を見るのは好きです。大好きです。
だからと言って仏像を彫刻というジャンルまで広げて、彫刻が好きなのかどうかはわかりません。
以前ギリシャに行った時に見た美しいヒダの線のしなやかな動きには見とれた記憶があります。彫刻は破損により作品としてみることはないことが多かったのですが、石に彫られたということを忘れるほどの柔らかさになんとも不思議な世界を垣間見て鳥肌がたったほどです。
しかしその時のギリシャ旅行の中で歴史的に有名な彫刻を見ても感じるものはありませんでしたし、その後イタリアで見た一連の彫刻にも感動しなかったので、こうしてみると仏像だけが好きなんで、彫刻が好きということではない様です。
仏像が好きというと仏教という宗教の影響かと思いきや、宗教的な彫刻が同じようにみんな好きというのではなく、西洋のキリスト教の教会にある宗教的な話をモチーフにした彫刻に感動することはないのです。全く逆で、聖書の話を彫刻にしているものは見ていると重くなってしまうのです。ドイツの人が一押しする有名なリーメンシュナイダーの作品を見ていてもやはり疲れてしまいます。
仏像が好きなんです。特に好きな仏像は東大寺の法華堂の日光さんと月光さん、戒壇院の四天王、特に広目天と多聞天。興福寺の無着像などです。それから鎌倉の長谷の阿弥陀さんの大仏です。葛井寺の千手観音菩薩のお顔は本物をまだ見たことがなく写真で見ただけですが、是非一度ご開帳に合わせて見にゆきたいと思っています。毎月18日がご開帳日だそうです。
ここに挙げた仏像には共通するものがあると思っています。遠くを見ている仏像が好きなんです。すぐ近くのところに焦点が合っているのではなく、時間的にも空間的にも遠くまでを見通している様なものです。
耳の人間を自負するのであれば、耳の話もしなければ片手落ちになるので、耳の話です。
耳と言えば音楽です。もし人から、音楽に「何を」聞いているのですかと聞かれたら、答えに窮してしまいます。「何を」と言える様なものは何も聞いていないことがほとんどだからです。
詩に音楽をつけると歌になります。多分今日聞かれている音楽の大半が、クラシックは例外として、ロック、ジャズ、ポップ等々を含めて歌ではないかと思います。
歌詞のついていないものを純音楽というとすれば、クラシックの世界は純音楽が主流ということになりそうです。ジャズもクラシックに次いで純音楽の多い方かもしれません。
各国の民謡をはじめ、シャンソン、カンツォーネ、ファド、歌謡曲というジャンルは歌詞との共同作業です。歌詞に「何を」が含まれています。
純音楽と歌の違いは何かというと、純音楽は「何を」というところが出発点ではないということです。純音楽で「何を」を表現しようとしても失敗に終わってしまうでしょう。
これは純音楽の長所なのです。
目の世界の芸術には必ず「何を」が付き纏っています。絵は何かを描くのです。純音楽は「何を」がなくていいのです。もしかすると、人間の行為の中で唯一「何を」が問われない分野かもしれません。
ただ人間の癖で、純音楽である交響曲に「運命」だとか「ジュピター」だとかあだ名をつけますが、これは「何を」がないと居ても立っても居られないからです。本来はこのあだ名は聞き手を惑わすもののはずです。
さて、なぜ「何を」を持たなくても許されるということが純音楽の中で起こってしまったのでしょうか。私には答えられません。
これからもこれは続くものなのでしょうか。それともしばらくすると「何を」がないことに人間は耐えられなくなってしまうのでしょうか。
私が好きな仏像も遠くを見ているだけで「何を」を直接表現していない様な気がします。無責任とも違う何かです。
きっと、私が耳の人間だというのは正しくはないのかもしれません。ただ「何を」に疎い人間なのかもしれません。