大人も子ども遊ぶ時は真剣です
ユーモアと遊びは、実をいうと一卵性双生児なのです。
共通しているところがあります。どちらも言葉にしにくいということです。ですからユーモア論も遊び論も、一番聞きたいところには触れずに終わるのがいつもの常で、しかも大体つまらない結末で終わります。本当に言葉にならないものなのです。
ということはこの文章にも期待が持てないということになります。でも付き合ってください。
ユーモアと真剣。この組み合わせは一見噛み合わない感じですが、ユーモアというのはそもそもは重要な、しかも真剣な精神的営みのはずなのに、なぜユーモア論には魅力のあるものがないのでしょうか。多分ユーモアを語る真剣さが足りないのです。
遊びも同様です。子どもが遊んでいる時の真剣なまなざしを見れば、子どもにとって遊びがなんなのかすぐに想像がつきます。遊びを通してしか学べないものがあることもわかります。そうして学んだものは一生の宝です。
子どもの成長と子どもが遊ぶというのは切っても切れない間柄なのに、教育という枠が子どもを待ち構えていて、その中に入れられると、いつしか遊びが消えてしまいます。遊び心が不謹慎なものという位置付けになるからです。遊んでなんかいないで勉強しなさいというのは親の常套句です。
お勉強も遊び心でやるべきです。それがいいと思うのですが、遊びは真面目の敵ですからとにかく真面目であることが持て囃される様になります。真面目というのは決められた型にビッタリ合うようにするということですから、そんな中に入れられた子どもはしっかり息をしていないはずです。真面目というのは遊ぶことほど成長のためには役に立たないものの様に思うのですが、私の思い違いでしょうか。
遊んでいる時というのは大人も子どもも無心で、真剣で、実に充実した時間の中にいる様に思うのですが、型に嵌め込む様に真面目を押し付けられると知らず知らずのうちに打算の世界に放り込まれ、窮屈に周囲を気にするようになります。会社などでは出世の鍵を握る上司の目が気になり、学校で言うと特に先生の目を気にするのです。
まさに優等生の世界です。これが社会をよくすると考えているのでしょうか。勉強が好きな子どもがたくさん勉強するのは全然おかしなことではないのですが、勉強を道具に優等生的な生き方を選択するのは精神衛生上とても歪で危険なことです。
こんな中で子どもが大切な子ども時代を過ごしているのかと思うと、成人した暁にどんな大人になっているのか心配になってしまいます。
こうして作られた優等生が今の日本の政治を初めトップで司っているのかと考えると、遊びもユーモアも知らない人たちが徒党を組んでいるわけですから、そこからどの様な結果が生まれるのかは想像できます。
日本だけでなく世界中がユーモア欠乏症にかかっている様です。
ユーモアのある人に会ったことはありますか。お笑い芸人のように面白おかしいことを言っている人のことではありません。最近のお笑い芸人たちは、テレビなどで文化人というステータスを与えられて、真面目に社会的、文化的な発言をします。極めて不自然な現象です。
そうしたお笑い芸人はそこそこに頭が良いのでしょう。それにウィットの利く人なのでしょう。よく勉強している様ですが、ユーモアのある人という印象はなく、どう見てもユーモアとは無縁です。自分自身にユーモアがないので対談などでも相手からユーモアを引き出す術を心得ていない様です。
私の経験からすると頭のいい人ほどユーモアに欠ける様です。頭がいいと言うよりも、成績の優秀な人、成績が優秀だった人、お勉強のできる人と言った方が正しいです。本当に頭のいい人は知性が筋金入りですから、そと目からは頭が良さそうには見えないものです。むしろバカに近いかもしれませんが、ユーモアのある人は本当の意味で頭のいい人のことです。太っ腹ですぐに判断しない人だったりします。わかっていない人ほど「分かった振り」をするもので優等生タイプによく見られます。知るものは語らずと言うが如くで、ユーモアのある人は即断ができないという特徴があります。これは欠点の様に見えますがそうではなく、人生にとって極めて大切なことなのです。そして平気で「わかりません」と言うことを言います。わからないと言うことが恥ずかしいことではないからです。分かった振りをするのはおかしいと考えているのです。答えようとすることに真剣に向えば向かうほど、分かった振りができなくなるものです。そして人生はわからないことだらけなのです。なまじ分かった振りをして出した答えほど当てにならないものがないのです。