もう一度ムラについて

2022年7月15日

ムラのことが気になるのでもう一度書きます。

唐突ですが、今年三十六になる長男が結婚をすることになりました。すでにパートナーとは五年前から一緒に生活しているし、四つになる女の子と一才になった男の子がいます。以前は正式に結婚はしないと言っていたのですが、やはり結婚することに決めたようです。

式そのものは外の会場でやって、最後のトリは我が家の庭でするというので、何か飾りになるものを作ってみたいと、紙でくす玉でも作ろうかと思い立ちネットで調べてみました。折り紙で三十二のパートを組み合わせればできそうです。動画を見ていると「角と角をきっちりと合わせます」と何度も繰り返されているのがとても印象的で、「そうか、折り紙にはムラは禁物なんだ」とブツブツ言いながら見ていました。

 

ムラが禁物なのは音楽も似ています。リズムの取り方についていうと、メトロノームのような機械的正確さと、インテンポと言って主観的に変形した自由リズムがあります。古い録音を聞いていると(たかだか百年前です)、意外とインテンポのものが多いのに驚かされます。ここ三十年ほどの演奏にはほとんど見られません。それどころかインテンポは禁じられているようです。最近の音楽は、折り紙のように、きっちりと演奏しなければならないという考え方に支配されているようです。

前にムラについて書いた時に、「日本人はきっちりし過ぎているのでムラが苦手」というようなことを書きました。今でもずっとそう思っています。音楽でいうと、日本の方の演奏はきっちりし過ぎていると感じていたことに通じます。

「きっちりと」というのは説明しやすいものですが、「ムラ」がどうゆうもので、どのように生まれるのかを説明するのは難しいです。ムラは油断すると出鱈目にも通じてしまいます。とすると間違いということでもあるわけで、音楽で言えばミスタッチですから下手くその典型です。

 

以前、理科系・文科系という文章を書いている時にもムラのことが脳裏を掠めていましたが、そこではうまく処理できなかったので素通りしましたが、今日は挑戦してみます。

理科系はいつもきちんとしなければ成立しないものですが、文化系にはムラが必要だという考え方です。理科系から見たら文科系はいい加減な人間たちでしょう。しかしこのいい加減がなくなったらどうなるか、人類は擦り切れてしまうに決まっています。IQ、知能指数は理科系指数、つまり理科系能力を測定するだけのものですから、文化系を測定するシステムは今のところ存在しません。文科系的「ムラ」は測れないからないというのは理科系の発想にすぎないと言えます。理科系人間から見れば文科系は存在意義がないといういうことになってしまうのでしょうがグロテスクなロジックです。

 

人間の考え方を支配している善と悪、正しいと間違いというのも「ムラ」から捉え直してみたら、味のあるものが見えてくるかもしれません。例えば人間というのは善と悪の斑(マダラ)だというようにです。

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