芸術の力
芸術が美しいものというのは的を得た言葉で、美しいものに憧れる人間の深層をもの語っています。ただ美しいものがいつも綺麗なものという風になるとすこしずれを感じますが、それでも美しいと感じる瞬間はどんな物の中にもあるものです。
いつ美しいということを感じるのでしようか。微妙な所ですから繊細に話しを進めましょう。
昔読んだ中井正一の文章の一節を思い出しています。
水泳の選手が何度も練習してゆくうちにまるで水と一つになった様な瞬間を感じることがある、それを美しいという言い方で書いていました。
一つになるということが基本の様な気がします。
ゴッホのひまわりの絵を見ていて、そこに自分が思い描いていたひまわりそのもの、あるいはそれ以上のひまわりそのものを感じる時、美しいという感じがこみ上げて来ます。これはこみ上げて来るもので、それは知識で整理したものでもなく、絵に付いているお値段を見て言っているのでもなく、自分とゴッホの描いたひまわりとが一つになったからこみ上げてくるのです。
美しいと感じるのはひとりひとりちがっていると言うのも大切なことです。
美しいと感じることから人間は自分である、自分という人間が生きているということを実感するようになる、そう言っていいと思います。
個性を大事にしましよう、という様なスローガンがいろいろなところにはびこりますが、そこでいわれている個性はなんとなく取ってつけた様な個性で、すぐに一般論的な世界に吸い込まれてしまう様なひ弱さを感じます。
美しいと感じるのは、人の場合でも、その人の行動でも、詩でも、小説でも、あるいはつまらない物でも、食べ物でも、骨董でも、ブランド物でも、絵画でも、音楽でも、建築でも、道端の花でも、着物でも、洋服でも、風景でも、庭でもいいわけです。それを目の前にして「美しい」という感覚がこみ上げて来て、それと自分との距離が無くなる瞬間に何かが起こっているのです。
自分が一番自分である時です。そこには何人といえども外から入り込むことはできないのです。それを聖域と言います。この瞬間を言葉にするのは至難の業です。後世にまで残る芸術作品はその瞬間をとらえているだけでなく、それが他の人と共有できる物になっています。凝縮していると言ってもいいし、浄化されていると言ってもいいし、高みに達していると言ってもいいものです。
名画とか名曲と言われているものを自分でも感じようとする努力には意味があります。
そう言うものを見たり聞いたりすることで、自分の中の眠っている感性を覚ますことです。骨董の人たちはいいものだけを見ることで目を肥やしています。
ある時朝目が覚めたら、今までは人が素晴らしいと言うからというスタンスで接していたその絵の、その音楽の持つ美しさに出会うということも起こります。
自分が広がって行ったのです。その時、今までは見えずいたものがいろいろと見えて来ます。そして更に、美しいと感じるものがどんどん増えて行きます。
教育が芸術だという時には、教育が子どもたちの眠っている美しいと感じる能力を目覚めさせる仕事だと言っています。子どもは「すごい」とか「へー」とかいうだけですが、そこにこれからのそのことの一生を左右するかもしれないものが生まれているのです。
教育が物を教えるだけで、子どもたちはそれを一生懸命覚えるだけだと、人間の心は死んでしまいます。
ただ子どもというのは大人以上に物と一つになる力を持っています。これは共感能力です。ですから、一見知識にしか思えない様な物の中にも美しいものを感じとることがあります。
だからと言って知識を押し付けるのは考えものです。
たとえばある画家が新しい時代を切り開いたということを学びます。「そうか」、と子どもはその画家の名前を知識として覚えます。そしてその画家の何が新しい時代を切り開く力となったのかと悶々としながらその絵と対峙します。そしてある時「何か」をその絵の中に感じる様になることもあるのです。
教育というのはとても広義に解釈できるものです。
子どものためというばかりでなく、大人も教育を必要としています。
教育というのは、眠っている美的感性を目覚めさせるものだからです。宗教的にも、芸術的にも、学問的にも美しいと感じるものなのです。いろいろなものを美しいと感じることが人間を大きくし深めてくれます。
私はそれが芸術の持つ力だと思っています。
芸術は昔の修行という物にとって変わった現代の人間成長のための道です。
自分が自分だということをしっかりと感じることです。自分に自信が湧いてきます。それは勇気です。それが生きることの出発点になるからです。自分が自分だと感じた所からその人の人生が始まるのではないのでしょうか。
美しいと思った瞬間のことを感動と呼んでいます。