世界遺産の日本食、日本食のセンスとは

2022年11月26日

大好きな日本食について書いてみます。

世界遺産に登録されたことが拍車をかけたのでしょう、世界中至る所で日本食はブームになっています。日本食がいい意味で広がってゆくのは私のように海外に住む者には全く有難く、今後もどんどん広がってほしいものだと思っています。

しかしユネスコが日本食を世界遺産に登録したというのは、世界中にお寿司屋さんやラーメン屋さんを増やしたいためではないはずです。コロナ禍で観光客の足は止まりましたが、それ以前は一年に400万とも、いっ時は2000万ともいわれたほど外国からお客さんが訪れていますから、日本で日本食を召し上がった方が自国に帰られて日本食を食べたいと思う気持ちの中で日本食が海外で人気者になっていったと考えていいと思います。

 

この日本食の世界遺産登録は意外と焦点を合わせるのが難しいものだと考えています。ユネスコ的にというか、ユネスコが考えた日本食をイメージすると、ある特定の料理が指定されているわけではないことに気が付きます。かつて韓国がキムチを世界遺産にしようと韓国が国をあげてユネスコに相当の圧力をかけましたが、ユネスコはその裏に潜む商魂に気づき聞き入れずに跳ね返したのは、個々の食べ物を遺産登録する意図がないことははっきりしています。食文化としての日本食全体が登録される所に意味があるわけです。私はこのスタンスに関してはユネスコに賛同しているのです。ユネスコの考え方は、一応は日本食といいつつも、それを支えている見えない日本文化そのものを世界遺産とするということに通じている様に思えるからです。日本の伝統的な味、味付け、食材が世界遺産になったと考えるより、日本食の個々の料理を支えでいるエッセンスがこれから時間をかけて世界に浸透してほしいと願ったのでしょう。旧来の伝統的な日本食が姿を変えながら世界の食の財産になってゆくのも興味津々です。元々ある民族の料理に新しいインパクドが日本書を通して伝わってゆくというレベルの話はもっと清海が湧きます。世界中で揚げたての天麩羅を箸で食べ、トンカツをキャベツで食べ、ラーメン・うどん・蕎麦を啜るというのも面白いでしょうが、日本食のエッセンスが世界の民族料理にまで浸透し、その土地の食生活をグレードアップするというのも可能性ありです。

このテーマを、私が鹿児島のオンラインの講演会で熱を込めて語りそれ以降何度かこのブログでも取り上げた「センス」の問題として扱ったらわかりやすいのではないかと考えます。日本食におけるセンスということです。

日本食全体のことですから、固有名詞としての個々の料理ではないのですが、だからといって、例えばある天麩羅職人さんがとんでもなく美味しい天ぷらを揚げるという技術は無視する必要のないものです。そしてそういう仕事は集団の経験を寄せ集めたからといって頂点を極めることはないもので、その仕事は必ず個人の才能と努力に負っているものなのですから、これからもいわゆる個々の日本食はますます進化してゆくものだと思います。日本食そのものが新地を開拓し、ますます美味しくなるのは嬉しいことであり望ましいことです。それだけでなく日本食を支えているセンスを磨くことができれば、それによって外国のさまざまな食文化との接点を持つことになるのだと思うのです。ローカルな意味の日本食を超えてゆくこと以外にはこの接点がなかなか見つけられない様な気がします。そうなると形だけの料理の輸出という段階で止まってしまい、食文化としての世界への伝播では無くなってしまいます。

家内のスイスの友人の息子が、関西地方と九州を一ヶ月旅行しました。あちこちをみてまわって、帰って彼の母親に「言葉にはできないけど、お母さんもあの国とあの人たちに一度触れみてほしい」と懇願したそうです。コロナ禍の中まだ実現はしていませんがお母さんは「なんなのでしょう」と、とても楽しみにしているそうです。その知り合いの息子が感じた日本というものと、ユネスコが日本食と名指したものには深いところで共通点がある様に思えてなりません。

日本食の世界遺産登録事件は伝統的な日本食とこれからの日本食をつなぐためにも有意義で、日本食の将来を考えるときにも必要なものです。そこで力を発揮するのは「センス」です。日本人なら日本食がわかるのかというとそんなことはないわけです。外国人には日本食の良さなんてわからないのだというのも驕りです。日本のフレンチの方が本場より美味しいと豪語する日本人は沢山います。そのうちニューギニア人の作る懐石の方が日本で食べるより美味しいなんてことにならないとも限らないのです。

唐突ですが、日本庭園の話をします。今ではまだ島根の足立美術館の整理整頓された煌びやかな日本庭園が、桂離宮の庭園よりもアメリカ人ジャーナリストたちには好まれている様ですが、これから時間をかけると、桂離宮の中の日本的センスをアメリカ人も感じられる様になると想像します。そうなると評価は変わってゆくことでしょう。ただ日本の静寂、わび・さびの世界はあまりに特殊であることも知っておくべきです。

日本食を装った日本食というのは外国に住んでいるとしょっちゅう見かけ、舌を驚かせます。天ぷらもどきやトンカツもどきには飽き飽きしています。ただおおらかに「今は過渡期だ」と考える方が明るい将来が期待できそうです。過渡期はまだまだ続くことでしょう。もしかしたら終わることはないのかもしれません。

日本が日本食で世界の食生活に貢献できるチャンスが来ていると考えたいのです。ここは日本人が得意とする感性が本領を発揮できる格好の場所の様な気がしてなりません。

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