町中華の貴公子、板橋大山の丸鶴
B級グルメという呼び名は元々は故郷の郷土料理を呼ぶものらしいのですが、今では超絶技巧のグルメに対し、町中華のような庶民サイドの庶民の味方といったリーズナブルで美味しい料理全般に使われているようです。
町中華のYouTubeを見ていると実にたくさんのB級グルメのお店がアップされていることに驚きます。値段が手頃なこと、量が半端ないことなどを基準に、目が回るほどの多彩な工夫に驚くばかりです。ただ老婆心から言わせていただくと、たいていの値段が安すぎることです。安くすることが食文化の発展に繋がるとは思えないのです。
中華に行ったらチャーハンというくらいチャーハンが好きで、必ずチャーハンを食べます。そこでその中華屋さんの腕のほども観察しているというわけです。ネットでチャーハンを検索するとほとんどがパラパラチャーハンという、卵とご飯をきめ細かく混ぜるものに焦点があわされているようで、何人かのシェフのお手前を見せていただきました。私の好みでいうとあまりパラパラしているものは好きではありません。理由はタイ米や、インドのバスマティー米で作ればチャーハンはみんなパラパラになりますが、そうするとご飯そのものに味がないので、炒めても味が染み込まないという欠点は否めません。よくできたパラパラチャーハンも食べに行きたいという気にされてはくれないのです。
自分で作るときも、キャベツのみじん切りをあらかじめ炒め、仕上がりがしっとりするようにしたりするほどなので、しっとりチャーハンを作る人はいないのだろうかと検索していたら、出てきました。丸鶴チャーハンの生みの親岡山実さんです。チャーシューチャーハンです。岡山実さんの五十五年をかけた逸品です。チャーシューの入った炒飯は他にも見られましたが、岡山さんの作るチャーシューチャーハンは別物でした。
仕込みの流れるような段取りの良さもさることながら、中華鍋を振りながらチャーハンを作っている時の無駄のない所作が見事です。私の目を引いたのは姿勢がいいことと、所作に静けさがあることでした。まるで町中華の貴公子と言ったところです。岡山さんの、人呼んで「水の流れのような動き」は、全体が見通された上で次の行動がわかっている時にのみ生まれるものです。茶道なども、初心者は次の動作を間違えないようにときを張ってお茶を立てていますが、師匠クラスの人たちの動きはとても滑らかでしなやかで、次の所作が向こうからやってくるかのように見えます。丸鶴炒飯の切り札チャーシューチャーハンは一度食してみたいと思わせるもので、短時間の間に込められた料理の手順から生まれる世界の大きさと深さに驚きます。
料理というのはいろいろに言われます。愛情を込めて、手抜きをせずに、などを頻繁に聞きますが、なんとなくオマジナイのような感じで現実感にかけます。岡山さんのチャーハンを作る姿勢を見ていて、一流の料理はキッパリとした世界観、人間としてのバックボーン、哲学から生まれるのだと認識しました。まさにセンスです。何年修行しても、このバックボーンを作れない人は、いつまでも一人前とは言えないでしょう。経験から味を覚え、料理の手段を覚えただけではただの料理人に過ぎないのだと思います。
岡山さんの料理するところを見て、町中華にもこれほどの人格者が出るのだと嬉しくなりました。人間は何の仕事をしているかではなく、どう与えられた仕事をしているかだとつくづく思うのです。
町中華は人情に流されやすい世界でしょうから、料理人の人格が問われることはないだけに、経営的な採算に振り回されてしまいがちです。目先に走ることも多いはずです。自惚れものも町中華では嫌われます。もちろん拙い手抜きの料理はいらずもがなです。
ずいぶん難しいことをいいました。私は個人的には講釈のついた難しい料理が苦手です。そういう料理は食べるとお腹が痛くなります。名人がさ離げなく作ったような料理が好きです。そのさりげなさの中に、豊富な経験とその人の哲学の全てが凝縮しているような料理がです。