人から言われて嬉しかったこと
今まで講演してきた中でさまざまな評価をいただきました。大抵は聞き流していますが、時々心に残る言葉があったりして、それはそれで楽しみです。そんなかから二つ三つをとり出してみます。
仲さんのように全然変わらない人は安心できます
と言われたことがあります。この人は幼稚園の時から、つまり五歳か六歳の時から私の講演会に幼稚園経営をされている親につ連れられてきていました。もちろん講演の間は講演会場にではなく外で遊んでいました。そして大学生になったある日、広島の講演会の会場に晴れ晴れとした表情で突然現れたのです。その後親の幼稚園に帰り、今はそこにできた学校の先生をされています。
小さな子どもは判断力というのではない観察力で大人を見ています。子どもの頃から三十年の間私を観察し続けてきたその人に、仲正雄がどのように映っているのかにはとても興味があります。全てを見透かされているようで背筋が寒くなるようなところもありますが、幼児期、学童期、思春期をへて成人したその人から「変わらない」と言われたのです。
別の観点から補足すると、私は三十年講演をしてきて、毎回講演テーマは異なっていましたが、基本的には「同じことを喋り続けてきた」と考えていますから、先ほどの人から言われた 「変わらない」という評価が、講演を通して自分が貫いてきた姿勢にオーバーラップしたのです。その時々の状況に合わせた話はしてきたつもりです。不易流行というのか松尾芭蕉が好んで使った不易の考え方を心の中で大切にしてきたので、私を子どもの時から知っている人にそのように言われた「変わらない」は格別に嬉しいことだったのです。
仲さんはいつも新鮮ですね
と言われた時も嬉しかったです。一見「変わらない」とは対比され逆のような印象を持ちますが、変わらない中の新鮮さというのは、見落としがちですが大切なものです。ただ人物を評価するときに「新鮮」という形容詞はあまり使いませんから、それを言われた時の印象は逆に新鮮でした。魚、果物、野菜ならともかく「人間様に新鮮はないでしょう」と言いたくなりますが、実際にその言葉を言われたときは、意表を突かれたところもありましたから、普段とは違った嬉しさがありました。結構余韻が長く、その後もよく思い出してはニヤニヤしていました。その言葉が、人生をわきまえた年齢の方から言われたことも大きいと思います。
ようわからんかったがいい話でした
この言葉は当時78歳の方から言われました。ある老人ホームから講演を依頼されて、出向いたのですが、当初の約束は介護にあたっている人たちへの話でしたが、会場に着いてみると、大変な人数の人が講演会場に集まっていて、しかもそのほとんどが高齢の方達でした。102歳という方もいました。タイトルは「生きる喜び、歌う喜び」ということで、とにかく平生を装いながら話し始めました。主催者の方から「少しだけみんなで歌を歌ってください」と言われていたのでしばらく話をして、「では歌いましょうか」と誘水をしたところすぐに一列目にいた男性から反応があって「浦島太郎!!」と言ったと同時に大きな声で歌い始めてしまいました。その日の講演会はその後も意表を突かれることの連続でした。途中で、前から三列目あたりの女性の方が紙袋の中をゴソゴソといじくりまわして、隣に付き添っていた介護の方に注意されているのが目に入りました。ゴソゴソは注意されても止むことはなく、「あった」という大きな声とともに終わったのですが、手にしていたのはパンで「話を聞いていたらお腹が空いた」ということで朝食の時食べなかったパンを食べ始めたのです。会場を去る時に介護の方が「すいませんでした」と私に声をかけると、その女性はすかさず「ようわからんかったがいい話でした」と嬉しそうに私に告げ、介護の方に手を引かれながら去っていかれました。なかなか含蓄のある言葉だと今でもよく思い出します。わかるとかわからないを超えていい話だったのでお腹が空いてきたのです。その方がどのような人生を歩まれた方なのかは知りません。かつては大学の先生だっかもしれませんし、スーパーのレジで働いていた方なのかもしれません。教養や学歴の彼方の出来事で、いい話がどういうものなのかを考えるときに激しく私を突き動かします。いい話をしようなどと目論んでいい話ができるわけではありませんし、結果としていい話だったかどうかは聞き手が決めることです。
昨日と同じ話をしてください
この言葉は、かつて東京近郊で幾つかの講演会が折り重なるように行われた時によく聞いた言葉です。主催者でいると講演会の時にゆっくり話を聞くことができません。そんな時には次の日に別の会場で、今度はお客さんとして話を聞くということがよく見受けられました。そういう方と会場で顔を合わせると、「今日は一聴衆です、昨日と同じでもいいですよ」とはよく聞きましたが、昨日と同じ話をお願いされたことが一度ありその時には正直面食らってしまいました。昨日は会場に気を取られ途中が抜けいたようなので、今日はたっぷり昨日の話が聞けると期待しきました、ということでした。ちなみに講演のテーマは違っていたのです。
同じ話をと意識するとかえってできないものです。先ほど言いましたように、私はずっと同じことを言い続けてきたわけですが、同じ話をしてきたわけではありません。しかし同じ話をもう一度聞きたいと言われるのは、講演者冥利に尽きるものです。ですから「頑張ってみます」とお返事して講演を始めました。話が終わってから、いかがでしたかと聞くと、今日は私に話してくださっているようでしたというお返事でした。その後に何人かの方からも同じように、今日は私のために話をしてくださっているようでしたと言われました。
出鱈目な話
講演会の後主催者や関係者の方達とお食事に行きます。そこでもいろいろな評価をいただくのです。ある精神科のM先生が、「よく右脳から出てきた出鱈目で話ができるものですね」と言われた時には少しむかっとしました。「どういうことですか」と聞き直すと、「私は全く理解できませんでした」というお返事でしたから、これでは話にならないと思っていところに、大学で心理学を教えている先生が「横槍を出すようですが」と前置きをして興味ある話をしてくださいました。「初めて仲さんの話を聞いた時には私もよく似た感想を持ちました。あのように話をされる方に初めて出会ったからです。しかし今日は話を整理しながら書き写してみました。それで気がついたのはすごいロジックが底辺に流れているということでした。左脳で整理されたものです」先生はそこで、四色の色鉛筆で整理されたノートを私たちに見せながら「表面的にはM先生のおっしゃるように右脳の出鱈目に見えるのですが、その底辺に大変な左脳が潜んでいるというのは今日の貴重な発見でした」。私の立場から言うと、話をする時には前もって筋が通るように布石だけは置きますが、流れはその時の雰囲気次第です。講演会にはいろいろな人がいて、それぞれに人生があって、それを感じながら話すと自分でも眩暈がするほどの流れが生まれることがありますが、予め布石を敷いておくのでハンドルを取られることはありません。とはいえ「よく話が帰ってきてくれたものだ」ととんでもない方に持っていかれた時に胸を撫で下ろすこともあります。