片想い
片思いというのはいろいろな場面で多くの人が経験しているものではないかと思います。恋愛体験で言うと相思相愛とは違って一方通行なので、所詮勝手な思い込みにすぎないものなのですが、若かりし頃を思い出すと悔しい一方、甘くも苦い思い出でもあります。逃がした魚は大きいように、あの人と人生を一緒に過ごしていたらなんて幻想に浸れるわけですから、この片思いある意味では夢を膨らませられる楽しい思い出とも言えるのかも知れません。
独りよがりと言葉を変えると風景ががらっと変わってしまいますが、独りよがりも片思いも人生のいろいろな局面に登場しているような気がするのです。
音楽を志してがむしゃらに練習し、なんとか音楽で身を立てたいと頑張っている人がいるとします。ところが、練習したからと言って上達が約束されているわけではないのです。どんなに練習しても一向に上達しないということもあります。本人は練習した分だけ上達していると思い込んでいるのでしょうから、そうした場合外から口を挟むことはご法度です。勿論そういう人と付き合うのは極めて難しいであろうことは容易に想像できます。間違って「音楽への片思いにすぎないのでは」なんて言おうものなら人間関係にヒビが入ってしまいます。
音楽だけではなく絵画をはじめ他の芸事などもよく似ています。センスとか才能で片付けでしまうのはあまりに簡単過ぎて気がひけるのですが、やはりセンスがないところにどれだけ練習を重ねても上達は望めないものです。このことはいろいろな職業についても言えることで、片思いは早く気づかせてあげたほうが、その人のためかも知れません。
精神世界との関わり方もよく似ています。精神世界では練習ではなく修行です。修行を積むというのは徳を積むということのようで、それによって精神性が向上し、開け、発展すると考えられていて、荒修行という言葉があるほどなので、修行が辛く苦しいものであればあるほどその効果は大きいと信じられています。精神というのは肉体をいじめると目覚めるという苦行にまつわる考えは意外と一般に広がっているものなのではないかと思います。がむしゃらに修行をすれば精神性が開けるのであれば、話は簡単です。
精神性が開けるかどうかは人間側、つまり修行者が決めることではないというのが私の考えです。修行を積んだご褒美として精神世界の方からやってくるもののように思っています。片思いの反対の、向こう任せ、ある意味では他力に近いのかも知れません。
片思いから抜け出せず、引きずって忘れられない人よりも、その人本人にふさわしいお相手さんというのは向こうからやってくるのではないのでしょうか。相思相愛というハッピーエンドになるか、お仲人さんに紹介されてお見合いかの違いはあったとしても、向こうから来るものに福があるようです。昔聞いた話では、お見合いで結ばれた夫婦の方が離婚率が低いということです。
目標に向かって邁進する。これは若い時には必要なものなのかも知れませんが、年齢を重ねると、目標を立てることが難しくなるため目標が希薄になります。それで人生が狭いものになるかというと、今が膨らんでくるのでそんなことはないようです。