2025年2月14日
日本の月にはそれぞれ名前がついていて、それだけでも数字だけよりも自然に人格を感じて親みを感じます。西洋も元々は名前があったのですから、人間は自然をただ自分達の目的を満たしてくれるものとは見ていなかったようです。ちなみに日本の一年は、睦月、如月、弥生、卯月、弥生、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走となります。こうした字面を見ているだけで自然が今まで以上に近いものに感じるから不思議です。ものには名前があるということは深い意味があるのだと思います。現代はなんでも数字に置き換えられていますから、人間の存在への敬意が薄れているのかもしれません。。
「如月の望月」は西行法師の辞世の歌で読まれた題材でした。
願わくば花の下にて春しなむ
その如月の望月のころ(山家集)
中秋の名月とは違った凛とした名月が冬の寒さの中で輝いています。
残念ながらドイツはここ数日雨と雪で「雨降りおつきさん」となっていて、西行を追体験できませんでした。
でも気がついたらここのところずっとライアーを弾いていました。満月のライアーは特別だと信じ込んでいますから、期せずして満月に呼ばれたようにライアーを手にしていたのかもしれません。
ここ数日弾いていたのは自分でライアー用に編曲したブラームスの間奏曲でした。今回はブラームスの音が繊細に動くので、ライアーでは指が弦になるたけ触れないで弾けるように、ハ長調で弾くことにしました。原調は変ホ長調です。ブラームスさんごめんなさい。弾いているとやはりピアノのために作られたものだと感じるのですが、ライアーでもなんとか聞けるようになっていると自己満足しています。
でもブラームスってどこかで考えすぎって感じがします。そんなに思い詰めなくてもいいのにと、気の毒になってしまうようなところもあります。しかし今までにない味があるものになっているので楽しめました。
いつか皆さんに、満月に合わせて聞いていただける時があるといいのですが。
2025年2月14日
美は何かの陰だという考えがあ鳥羽にります。陰は陰湿な感じがし、美は華やかな感じですから、美と陰は正反対のようにも見えます。谷崎潤一郎の有名な著書「陰翳礼讃」は多くの外国の言葉に訳されています。日本的感性の中で育まれた陰りに宿る美をテーマしているエッセイです。西洋のキラキラした主張するものではなく、陰の中に美を見るのです。陰こそが美だと言い切るのです。西洋感覚からするとパラドックスに見えるかもしれないですが、違います。谷崎の生な体験に基づいたものに違いありません。彼がみた日本の美の体験は直球型ではなく、屈折したところを多分に持っています。歪で窪んだ完全でない茶碗が美を代弁しているのです。美ではなく物の存在の証です。
昔のことですが、一時期編み物に凝っていて、上から下まで、つまり帽子から、手袋、靴下まで、もちろんセーターやマフラーの類までなんでも手で編んでみました。子どもができた時には凝った模様を考えて「おくるみ」も編んで、それがなんと三人の子どもが順番に包まれ、さらに彼らの子どもにあたる五人の孫をみんな包んだのです。今も次に包む赤ちゃんを待っています。健在です。
自分で編んだものだけでなく手編みのセーターをみていると、既製品とははっきりとした違いが見て取れます。普通には風合いというのでしょうが、私には手で編まれた毛糸同士の間に生まれる陰が決定的な違いを産んでいるように見えます。その陰から生まれる微妙な動きが味わい深いのです。毛糸と毛糸の間に生まれるムラというのか不規則性というのか、とにかく機械編みでは見られない絶妙な味です。それは自分で編むようになってからはっきりと感じられるようになりました。
美学を専攻する大学の先生とお話をした時のことです。「美」を学問しているのですが、美がなんなのか未だによくわからないのです、と意外なほどあっけらかんとおっしゃるのでびっくりしたことがあります。わからないから研究しているのですよ、ともおっしゃいました。もう二十年ほど前の話ですから、今頃はきっと美がなんなのか見つけられたかもしれません。
神学というのも立派な学問です。イタリアのボローニャに初めての大学ができた時、その大学は神学のための学校でした。神様のことを研究するのですが、神様って研究してわかるものなのですかと、ある時親しくしている牧師さんに聞いたことがあります。わかりません、が答えでした。彼がいうには神様ってドーナツの穴のようなものなので、「あるのにない」という存在です。穴がなければドーナツではないのに、穴はドーナツではないのです。ドーナツに穴がなければドーナツではないので、穴は意味のあるものなわけですが、穴はどこまで行ってもドーナツにはなれないのです。神様もそんなものかもしれませんということでした。「ないという存在」のようです。
美は研究対象ではないので、探しても見つからないと思っています。神様のようなものです。ですから美学を専攻される方達、神学を件杞憂されている方達は大変だろうと思います。美は積極的に見つけようとしても見つからないものです。棚からぼたもちのようにただ待っている受動的なものの中にもないものです。その中間に中動的と言う言い方があるのだそうで、そこにありそうな感じがします。神様は少し違って、神の存在を信じた人の元に現れる存在のようです。
人間の行動パターンと言っていいと思うのですが、「あれかこれか」の選択型、「あれでもないこれでもない」となんでも拒否する型、「あれもこれも」という曖昧型が見られます。大抵は「あれかこれか」の選択ですから、白か黒かとはっきり分かれます。もしこの感性で美を見つけようとすれば、デザインされクッキリとした美になるでしょう。日本は「あれもこれも」ですから、靄がかかって輪郭はボケてしまいます。西洋と日本、お互い相容れない文化の基盤を持っていますから、西洋的な美と日本的な美とは相容れないものだと思っています。
日本は過去百年の間に西洋音楽をしっかりと受け入れてしまい、なんの違和感もなく音楽会が行われています。西洋音楽の中の聴きたい音楽を感じ取れるようになったということなのでしょうか。しかしどのようにして相容れない美を受け入れたのでしょう。ベートーヴェンと日本文化はどう見ても交わる接点がないように思うのですが、日本では暮れになると大掛かりな第九の合唱が各地で催され、多くの人がコンサートホールに足を運んでいます。大好きなのです。
最近西洋にも陰に美を感じる感性が育ち始めているのではないかと思うことがあります。なんでも言葉にしないとわかってもらえない人たちですから、なんでも表に出てきます。光の下に晒すのです。これをScheinと呼びます。この言葉と美しいを意味するSchönは根っこが同じ言葉です。日本の光は障子の和紙を通った淡い光です。陰を含んだ光と言えるのかもしれません。陰というより不完全なものを認める能力が目覚めているのかもしれません。去年は4700万人の外国客が日本を訪れたと言います。日本の何に惹かれてくるのかは様々です。食べ物、アニメ、質素な田舎の風景といろいろなものが日本にしかないということで求めてやってきます。焼き物や、刀鍛冶を習いにきている人もいます。至る所に日本の陰を重んじる文化が根底にあると思っています。なかなか言葉にならない分神秘的なのでしょう。ドーナツの真ん中の穴のような存在しないところにいる神様のようなものを感じて生きているのが日本であり日本人ということになりそうです。
イエスキリストの教え、イエスキリスト自身とその後の制度化したキリスト教会とは相容れないれないものを持っているように感じています。足を洗うイエスの姿など、思いやり、気配り、おもてなしの精神に通じているように思うのです。日本は案外原始キリスト教的なのかもしれません。自分を見せるのではなく陰のように振る舞うという妙技が日本的なのです。
2025年2月14日
ペンタトニックと聞くとすぐに幼児や子どもの歌、童歌を思い浮かべますが実際にそれ以外にべンタトニックは、あまり表立ってはいませんが、隠れて使われているようです。
砂山という北原白秋の詩に中山晋平がメロディーをつけた有名な童謡はペンタトニックでつくられています。童謡ということになっていますが、そんな枠を超えて万人に愛されている名曲です。歌謡曲にもよくみられるようで北治三郎さんの「はるばる来たぜ函館」という歌い出しはペンタトニックです。クラシックではバッハの無伴奏チェロ曲第一番ト長調はペンタトニックで始まります。
探せばいくらでも出てきますが、特に注目すべきはジャス音楽の中でペンタトニックはとても重要で、ペンタトニックの習得はジャズには欠かせないものと言ってもいいほどなのです。アドリブの時には絶大なる威力を発揮しています。
ドとファを持たないペンタトニックはなんのために五音でできているのでしょう。
元々はペンタトニックは五度の音程から作られていたものでした。ペンタトニックの根音はラの音です。今日でも音楽をするときにラの音で合わせるのが暗黙の了解です。シンフォニーの始まりでオーボエがラの音をだし、それをコンサートマスターがヴァイオリンで受けて、その音に全員が合わせる様子はよく知られたものです。その時の音はラです。
ペンタトニックには広大な宇宙観が背景にあると思っています。ラの音とは何かというと太陽の音です。ギターやリュートが共鳴箱に穴が開いているのは、太陽を象徴しているのです。太陽から音楽が生み出されたと感じていたのかもしれません。ゲーテのファウストの冒頭で大天使ガブリエルラのプロローグは有名です。太陽は同胞を引き連れ懐かしい心に響く音を奏でする(仲訳)。
太陽の音ラから五度上がるとミになります。そこからさらに五度上がるとシになります。今度はラから五度下がります。レになります。そこからさらに五度下がるとソになります。これを私たちが親しんでいるオクターブの中にまとめるとレ・ミ・ソ・ラ・シと五つの音になります。日本ではヨナ抜きという言い方がされています。ペンタとはそもそも「五」を意味しています。五度の五とオクターブが五音からなるの二つの意味があるのです。音と数学が結びついた純粋な五度の音程です。ペンタトニックは純正で調律できるため、響きは透明感があります。
ペンタトニックの大きな特徴は「いつ終わってもいい」ということに尽きます。というより「終わりがない」と言った方がいいかもしれません。私たちがよく耳にするドレミファソラシドからできている歌には終わりがあります。このドレミファソラシドのことをディアトニック(七音からなる音階)といいます。私たちが聞くほとんどの歌には終わりがああることに注目してください。それはディアトニックで作られているからです。終わりのないペンタトニックと終わりのあるディアトニック、この違いは何処から来るのかと問わなければならないようです。
ペンタトニックからディアトニックへという流れには、今見たように小さい子どもから成長してゆく姿が並行しています。ペンタトニックは時間の中を気ままに思いのまま無制限に動きます。時間の海を泳いでいるようです。いつ終わってもいいのです。小さなこどもが遊んでいる姿そのものです。まだ時間の概念のない中を生きている子どもたちです。遊んでいる小さな子どもに、お出かけするのであと15分だけ遊んでお片付けをしてと言っても、子どもの遊びには終わりなどないですから、お母さんが割り込んでお片付けをすることでしか終わらせることができないのです。
歴史的にも三千年くらい前はディアトニックからなる歌は存在していないと思います。当時はペンタトニックしか知らなかったのです。古い時代には今日の器楽曲のようなものはなく、全ては歌でしたから、詩に合わせて歌っているので詩が終わる時が歌の終わりでした。もしかするとメロディーよりも詩のリズムが音楽を支配していたようです。今日でも屁草メーター、アナペストといった名前は残されていますが、当時はリズムが主力だったようです。終わりのあるディアトニックが誕生するのは、古代ギリシャが自然哲学からソクラテス、プラトン、アリストテレスといった論理的な思考による哲学が生まれたことと関係しているのではないかと私は見ています。ここで韻律、つまりリズム中心からメロディーへと音楽が変化してゆきます。それと同時に文章というものが生まれます。散文の世界が始まるのです。理屈っぽくなってゆくのです。
メロディーが中心になり、散文で文章を綴りはじめ、ディアトニックになってからメロディーに終わるという必然性が生まれたのです。理屈に合っているというのか合理的というのか、辻褄が合うようになったのです。どうして終わりがあるとわかるのかと論議するより一度聞いてみればすぐわかることです。これで終わりますと言える場所がはっきりしたのです。ペンタトニックにはそれが欠けているので、終わらないのです、終われないのです。ではいつ終わるのかというと歌詞が終わる時です。音楽的には終わっていないのですが、歌う歌詞がないので終わってしまいます。お母さんにちいさな子どもが遊びを止められるようなものです。
この先続けると長くなるので今日はここまでにしておきます。