2025年2月13日
ブラームスのピアノ曲で、作品117の三つの間奏曲の第一番の最初の部分を、久しぶりにライアーで弾いてみました。ピアノ曲の中でも相当ゆっくりしたテンポで、ほとんどの人がゆったりとおおらかに弾いています。
それをライアーで弾いたらどうなるのかというと、想像通りさらにゆっくりになります。これ以上ゆっくり弾いたら音楽でなくなってしまうくらいのゆっくりさです。ゆっくり弾くというのは簡単そうですが実は適当なテンポの曲の方がずっと演奏には楽なのです。
ここまでゆっくりになると音を出す瞬間は途轍もない緊張の連続と化してしまいます。ゆっくりな上に音量的にはピアノもしくはピアニッシモですから限りなく静かに弾きます。そうすると緊張はさらに高揚します。なんとか流れが生まれた頃にこの緊張が快くなっていました。
ライアーはピアノのようにたくさんの音をいっぺんに弾けないので、ピアノの楽譜と睨めっこをしながら今回もどんどん音を省いてゆきました。不思議なのは、省けば省くほどライアー的に良くなってゆくのです。ライアーは一音が美しいと再発見でした。
この曲は既に「光のなみだ」に録音しているのですが、しばらく触れることがなくいたら少し違ったイメージが生まれたような気がして、そのイメージに従って編曲し直して、調性も弾きやすく直して、ゆっくりから生まれる緊張を満喫できるようにしました。
私とブラームスとの相性ということでいうと、あまり良くない方だと思います。教養として主だったものは色々と聞いてきました。今回も、編曲している時、演奏している時に曲の流れなどに関して、「なぜこうなるの」と首を傾げていました。
弾きやすいものばかりではなく、時には自分向きではないものにも向き合ってみたくなったというのが正直なとこ露です。当時編曲して録音に踏み切ったのも同じような動機だったように記憶していますが、あれから何年も経って、またブラームスはどうかなと、ふと思って再度挑戦した次第です。ライアーの演奏会がいつの日かあれば是非お披露したい曲の一つです。
2025年2月8日
哲学を語るのが好きな人たちで作っていた哲学の会という、ハイデルベルクでの集まりに定期的に参加していた時に、美をテーマにして話し合ったことでかありました。それぞれに言いたいことを言っていたので、特にまとまることもなく、深く進展することもなかったと記憶しています。結論めいたものを求めていた人もいなかったのです。その中の一人が美は真理の別の現れと言っていて、それ聞いた時にはなるほどと思ったのですが、よくよく考えてゆくといつの間にかどちらも霧のように消えてしまいました。
私にとって美というのは消えていってしまうものではなく、確実に手応えがあるものなのです。ものとして掴めるものではないですが、確実のあるものです。絵を見ている時、存在感のある彫刻に接しているとき、これが美だと、美を感じることがよくあります。直感的なものです。自然の中にいて、自然の美を感じることもあります。自然に美を感じるのか、自然が美なのかはよくわかっていませんが、自然は美を包括しています。
ところが音楽を聴いている時に美を感じることがないのです。私には音楽は美とは関係なもののようです。美しいものではないのです。音楽というのは芸術の中で、他の芸術と少し違っています。では音楽をなんとして受け取るのかということですが、音に包まれて自分が無重力の状態になることで、音楽と一体感を感じる時です。それが一番気に入っている音楽体験です。受動的でもなく、能動的でもなく、中動的というのかもしれません。なるがままにという感じです。
自分が消えて音楽だけがそこにあるような感じをよく音楽を聞いていて体験します。そもそも音楽というのは時間の中を流れてゆくので、その体験は流動的で、他の芸術のように定着していないから消えてしまいます。絵とか彫刻は違います。それらの美はそこに在り続けるので、静止した時間の中で存在を放っています。
美は綺麗とか、煌びやかとか、装飾的なものとは別のものです。そういう捉え方から美は定義されてしまっています。美はどちらかと言えば質素でストイックなもので、しかも野放図です。あってないような存在です。存在感を感じるというのは、対峙しているのではなく、その存在と一つになってしまうことで、客観的なものではなく、どちらかというと主観的なといっていい体験です。結局美というのは各自の尺度の中にあるのですが、全く主観的とも言えない曲者です。
先日のブログでは美を心の中の光に例えたのですが、美とは質素なものなのに光り輝いています。そして二つの方向性があり、一つは過去に向かっていて、懐かしいという感触です。もう一つは未来に向かっていて、そこから生きてゆく力を汲み取っています。
私にとって美は真実の別のあり方と捉えるより、ずっとユーモアに近いものです。コンコンと湧き出ずる泉のようなもので、乾いた喉を潤してくれます。
これ以上書くと話が壊れてしまいそうなのでここでやめます。もしかしたらもう相当壊れているかもしれません。またいつか書けそうなものが湧いてきたら書くことにします。
2025年2月6日
先日新聞を見ていたら、今年のドイツの税収入は三年ぶりにプラスになったとの報告がされていました。それによって社会の景気が良くなったかのように報道していますが、とんでもない誤報です。経済はガタガタですから、一人一人の国民から税金をとんでもない比率で取り上げることから、税収入が上向きになったに過ぎないのに、あたかも社会的によくなっていると報告しているに過ぎないのです。
我が家のように一戸建ての家に対してかかる税金が今まで年間に十六万ほどでしたが、今年から五倍に跳ね上がりました。なんと収める金額が八十万に値上がりしたのです。この調子で税金を国民全部から徴収すれば、ドイツの経済が停滞していても税収入は良くなるに決まっています。値上がりの金額は家の大きさによって異なりますが、倍率が五倍になるのはどの家も同じですから、年金生活をしている周りの人の中にはどうしたらいいのか途方に暮れている人もいます。大手の会社の収支決済が赤字になると何千人と解雇しても今年は黒字になりましたと吹聴しているのも同じようなものです。
ということで、私は今年からはベストセラーを書いて急場を凌がなければと奮起した次第です。
そのほかに物価の高騰は凄まじく、そのうち税金にあてられているのがどのくらいなのかはわかりませんが、どこをみまわしても便乗値上がりばかりです。
それで税収入が向上したと政府は豪語するのですから、ドイツ政府も日本のインチキ政府と似たり寄ったりのような気がしてきます。
どうして政治というのはウソの坩堝になってしまったのでしょうか。ただ正義感を持って政治に携わっている人の姿も知っているので、あながち悪口ばかりで政治を語りたくはないのですが、日本の地方政治などをみていると、政治という名のもとに利権絡みの金の取り合いをしているにしか見えなくなってしまいます。
こうした様子をみていると末期症状ということを思ってしまうのは私だけでしょうか。今の制度の中から改良されてよくなるという気が全然しないのです。ポーカーではないですが、全取っ替えみたいなことはできないのでしょうか。もちろんそれで必ずしもよくなるという保証はどこにもないのですが・・。
教育というより人間育成ということに大きな問題があるのです。今日しくとなのつくところはどこへ行っても知性中心になってしまい、頭ばかりが冴えた人が社会のリーダーとなって社会を牛耳ってゆくようになってしまったのです。政治家は偏差値の高い学校の出の人が大半を占めています。知性が教育の中で培われた全てということになれば、シュタイナーの発言のように、盗癖のある人間ばかりになってしまうのは必定です。政治家の多くが、機会があったらなんでも盗んでやろうとしているのです。しかも無意識の中でそれが作り上げられてしまっている人ばかりですから、ある人が正当なことを言っても、彼らはそれが自分に向けられているとは微塵も思わないのでしょう。
教育が変わらないとダメということなのでしょうが、教育以前に社会が人間育成に何を期待しているのかを根本から考え直さないと、表面的に教育だけを変えても、全ては元の木阿弥ということになってしまいそうです。
社会がこのように暗いものに覆われている時だからこそ、一人ひとりが心の中に明るい光を灯したいものです。美しいものの中に宿る光、なんの力もないように見える美の光ですが、美は光そのものなので、芸術こそがその光を絶やさないための力になるものだと信じています。失望に暮れる人類を救ってくれるのは芸術以外にないように思えてなりません。