2025年2月5日
小さな子どもと話していてよく耳にするのは「食べ物では何が一番好き」と言うことです。子どもは色々と期待して待っているのですが、私の答えはいつも「なんでも好きだよ」なので、子どもたちは「つまんない」とすぐに話題を変えてしまいます。
以前は食事に誘われる時に「何か食べたいものありますか」と聞かれると、「美味しければ何でもいいです」と返事していましたが、最近はこの言い方は意地悪だと悟り、言わないことにしています。何を悟ったのかと言うと、「美味しいものを選んで食べる」のではなく、「なんでも美味しく食べる」ように心がけていることです。
ソムリエというのを色々なところで耳にするようになっています。そもそもはワインに精通した人ということと認識しています。食事とワインのコーディネートをする人です。ところが最近は味噌のソムリエ、塩のソムリエ、林檎のソムリエという言い方があるようなのです。
昔お茶といえばお茶の木の葉っぱを摘んで、蒸して、干したものを「茶」と言って飲んだのですが、最近はお茶の飲み方が「お茶」、「ティー」ということのようで、「ハーブティー」という時には色々なハーブとして親しまれている薬草をお茶を淹れるようにして飲むことを指しています。そもそものお茶の葉っぱには全然こだわっていないようなのです。ソムリエもよく似ていて、あるものに精通しているという意味合いで広く使われるようになったみたいです。昔だったらワインのプロフェッショナルとでも言っていたのかもしれません。
ソムリエが珍重されるのは、高級レストランの美味しい食事に一番合うワインを飲みたいからです。赤がいいのか白がいいのか、フランスものがいいのかイタリアか、最近はチリ、カリフォルニア、アフリカとワイン作りが世界至る所でなされているので、ソムリエの方たちも相当の量のワインの知識が必要になっているようです。
一番合うワインという発想は、実は小さい子どもが口にする「一番好きな食べ物は何」と同じ系列のもので、ワインの味もそうですが味覚というのはその日の体調も大きく左右するものですから特別の銘柄が絶対ということはなく、最高とい等級は一本のワインに限定されるのではなく、ある程度の幅があると考えていいものです。今年のワインの金賞に輝いたとは言っても、その裏はワイナリーが持ち回りで金賞を取ることになっていたりするので、当てにならないものです。
ここでも絶対ではなく寛容ということにたどり着くのです。
日本で初めてフランスのソムリエ大会で優勝された田崎さんが、日本のテレビで「田崎さんはいつもお食事にふさわしいワインを召し上がっているのですか」と司会者に聞かれ「そんなことはありません。美味しければなんでもいいんです」とさせりと答えていたのを今でもよく思い出します。
2025年2月1日
ピアノ曲、シンフォニー曲、弦楽四重奏曲といった作品の中からライアーで弾けそうなものを探しては編曲をして、CDにしてきました。最近ではYouTubeでも聞けるようになっています。このところその作業をしないでいたのですが、またライアーに向かって弾けそうな曲はないものかど色々な分野の音楽を聴きながら探しています。
ライアーというのは不器用な楽器です。そのことに気づかずに弾いている人は多いと思います。表面的にみると、ピアノのように十本の指を駆使して弾くようなことはできませんし、しかもスピードはスポーツカーどころか人力車のようにゆったりとしたものです。
ライアーの本質はそういう観点からでは語れないものなのです。そんなことでは語り尽くせないのがライアーという楽器です。ではライアーとはどういう楽器かというと、その本質は、弾かないで弾くというところに到達できるということです。他の楽器は一生懸命に弾くことが求められていて、そのために猛練習をします。楽器の方もそのために開発されてきました。ヴァイオリンのストラディヴァリウスや近代に完成したピアノがこれにあたります。練習すればするほど上手になり、コンテストで優勝できるようになるのです。
もちろんライアーも楽器ですからそれ相応の基礎練習は欠かせませんし、ライアーと体と腕と指とが一つになるところまで訓練しなければなりません。いわゆる練習の時期ですが、その後は超絶技巧のように技巧に走るとライアーのいいところから離れていってしまいます。こんな楽器を私は他に知りません。ちなみにライアーを上手に弾く人たちの演奏を聞いてみた時の感想はというと、つまらないのです。友人の奥さんがライアーを弾くのですが、音楽好きな彼の耳にはライアーは不完全な楽器としての認識しかなく、「どこか間違っている」という感想を持っていました。彼が私を訪ねてきたので、夜にライアーを聞いてもらったのてすが、その時「こうやって弾く楽器だったんですね」と納得され、それ以降奥さんが弾くライアーに文句をつけなくなったということです。ちなみに奥さんはライアーを実に上手に弾かれる方でした。
以前に「ヤドリギとあくび」の中に私が昔勤めていた施設での音楽会のことを書きましたが、そこで障害を持ったお子さんたちの音楽への反応を描写しました。涎現象というべき反応のことです。特に重度の障害を持っているお子さんたちに顕著だったのですが、彼らの気に入る音楽になると、口元から涎が流れ出すだすのです。音楽と一体化して体の緊張がほくれるからです。障害を持っているというのは、能力検査などの結果からすれば、劣っている人たちのことを指しますが、それでは彼らを正しく理解することができません。彼らにはそもそも大きな問題があるのです。それは体が極度に緊張しているということです。その緊張というのはピアノが全く調律されていないような状態に比較できるかもしれません。こんなピアノを弾かされたのでは、プロの演奏家でも満足な演奏はできないのです。障害を持ったお子さんたちは、そんな体の中に閉じ込められているのです。音楽が彼らの体に入ってくる時、彼らのからだは敏感に反応して緩み出すのです。その緩みが涎につながるのです。
上手な演奏の時には何の反応も示さない子どもたちです。よだれどころか、うるさいと言わんばかりに拒否するように近くのものを叩いたり、大きな声を足したりすることもあります。音楽を聞いていてもです。音楽が障害を持った子どもを治療するというのは、聞こえのいいスローガンに過ぎないのです。子どもは正直ですから、自分の体の中に入ってくる音楽だけに涎で反応するのです。
ライアーは聞き手を溶かすような音を作り出すことができます。しかしそのためには技巧練習から離れないとできないのです。時々「私もライアーをやってます」とライアーを持ってきて私の前で弾いてくれる人がいます。でも大抵は針金を爪で引っ掻いているのです。これでは音に溶けてゆくどころか、聞いていてイライラしてきます。臭害を持ったお子さんのように周りに当たり散らかす行動に出たくなります。治療どころの話ではないのです。
編曲し終わったものをライアーで弾いてみると、今まで聴き慣れていた音楽から新たな発見をすることがあります。ライアーというフィルターにかけられたそうした楽曲は別の顔をしたものに変わるのです。ライアーには、うまく言えないのですが、音楽を濾過するような作用があるのかもしれないと感じています。
編曲の時にはとにかく音を少なくしてゆきます。ピアノ曲の和音は全部弾けませんから、和音の中から響きとして残したいものを選んでゆきます。作曲した人が見たら怒るような作業です。でもライアーで弾くためにはこうせざるを得ないのです。
ライアーの曲になってゆく過程はなかなか面白いものです。ライアーの曲と言えるものになるには、楽譜をライアー演奏に移行した段階ではまだまだで、弾き込んでゆくうちに、だんだんと表現するという悪い癖から離れてゆき、ただ音が鳴っているという静かな段階に入って行きます。そうなって初めてライアーの曲という感じで聴くことができるようになります。
2025年1月31日
ドイツも今は冬を抜け出そうしている真っ最中で、三寒四温という言葉通り春を迎える準備に慌ただしい。大寒も過ぎてもうすぐ節分で、豆まきをした次の日が立春だから春が本当にすぐそこにまで来ている。
季節の移ろいは、ただごとではない。陽の光が日に日に強くなっている。ただの時間の推移ではない。まるで季節が人格の持ち主であるかのようにさえ見えてしまう、大イヴェントである。手ごたえのある、存在感のある出来事で、その渦中にいる人間である私たちは、その舞台である大空のもとで小さく感じられる。
この時期に襲ってくる気怠さが今年もやってきて、この二、三日はとても疲れていた。この疲れに負けないためには自分に向かい合うしかない。心の中を動き回っている思いを言葉にしてみることが一番。それは心のストレッチだ。しかし心の中というのはいざ言葉にしようとするとその動きの速さに驚かされる。
万葉から平安のあたりまでは、心に向かい合い言葉にするとき散文ではなく和歌を詠んだ。気持ちを言葉に託すために五七調のリズムがあった。リズムはおのずの動きを産む。それが流れとなって心の中の速い動きに散文よりも親しく寄り添えたのかもしれない。リズムを持たない散文に頼り切っている現代人には羨ましい限りで、私などは散文で何とかリズムが作れないものかともがいているが、散文のリズムは間伸びしていて、時に重い。
季節ごとに万葉集の歌を思い出すことがある。その時の心の風景に近いものに出会うと、何だか故郷に帰ってきたような感じがして、その詩の中に溶けてしまう。懐かしいという感傷的なものではなく、「ただいま」と言って無我夢中に玄関を開けて家の中に飛び込んでいった幼い頃に帰ってしまう。その瞬間だけは周りの時間は消えて、思い出の中の時間がリアルな時間に変わる。