2024年6月12日
もう二十年前のことですが、ハワイにゆきました。
初めてのハワイでしたから旅慣れているとはいえドキドキでした。飛行機は七時間くらいのフライトでした。窓から見える景色は海だけでしたから、全く変化がないままの退屈な時間でした。
当時のことを思い出すと色々なことがあるのですが、あの時は漠然としていた体験が時間をおくと鮮明とまではいかないのですが、想像しなかったような鮮明さで思い出されます。個々の景色とかはその時にもインパクトがあって、ハワイにいると感じるに十分なものでしたが、ハワイという空間に包まれているということは当時は漠然としか感じられないものでした。当たり前すぎたのでしょうか。
例えばハワイというのは太平洋の真ん中で、お隣さんはとんでもない距離にある孤独な所と言っていいような孤立した場所です。大袈裟ですが日本がお隣さんです。今そこにポツンと自分がいるというのは、地図で見たり、理屈では分かっていても実際の体験としてはつかみどころのないものですから印象に残っていないのです。ダイヤモンドヘッドとか、神の浜辺と言われる透明感のある砂浜などは景色としてはっきり印象に残っているのですが、ハワイという全体のイメージは当時は持ち得ませんでした。一つ一つの印象が強烈すぎたのかもしれません。
長い時間が経って、ふと最近になってハワイのことが思い出されるのですが、そうなると逆で、個々の景色の美しさなどよりも、ハワイに居たのだ、太平洋の真ん中にぽつんと居たのだ、あの真っ青な太平洋の海のまん真ん中に居たのだと、不思議な感じがしてくるのです。ハワイに包まれるのです。しかもその独特な孤立感、包まれた暖かさが懐かしいのです。ハワイと一つになっているという感じがするのです。当時はほとんど感じていなかったのに、懐かしいとはおかしいですが、きっと無意識の中で何かを感じていたのかもしれません。
人間には時間がある。こんな単純なことが、ハワイのことを思い出し、懐かしがっているときに感じるのです。時間の中でしかわからないものがあるのだということです。
まだ昔のことを思い足して懐かしがるには若すぎますが、時間を経て熟している何がしかが私の中にも蠢いているのを感じることはあります。ただまだこれから何が起こるか楽しみだという方が過去を懐かしがるより強いようです。
2024年6月11日
音楽と言葉。
このテーマで本や論文を探すと読み切れないほどあることに驚きます。
ムシケというギリシャ語は言葉と音楽が混ざっている状態で、そこから音楽が独立してくるという考え方を、私はゲオルギアーデスというギリシャ系ドイツ人の著名な音楽学者の著書で初めて読みました。とてもインパクトの強い分でした。その影響を受けた人たちだろうと思うのですが、音楽の歴史の本を読むとよく出てくる考え方でした。
基本は言葉から音楽というものが独立したというものなのですが、私は長いことその通りだと思っていましたが、最近は少し違う感じ方をしています。
音楽と言葉はいまだに一つのものと捉えられるのではないかと思っています。
書道を例にとってみます。音楽は書道で言えば楷書の様なものです。しっかりと形を整えなければならないのです。まっすぐだとか、跳ねるところとか、辶の抜くところなどです。誰が見ても正確に書かれているということが楷書の大事なところであり、楷書の美しさなのです。気持ちよく整っている書体です。
言葉の発音というのは、正確ではなく崩れているもので、音楽が正確さを競うとすれば、言葉は正確な発音などいうのはないので、いい加減なところがあると思っています。いい加減というのは出鱈目ということではなく、個性とか、癖の中にあるということです。もちろんある程度はどの人にも共通しているものです。もちろん発音記号などもあって規則化されています。
言葉は行書、とか草書に近いものと言ってみたいのです。何人かのイギリス人に同じ単語を発音してもらうと、予想以上に違います。確かにみんな同じ単語を発音したとはわかるのですが、違いもわかります。でも同じなのです。何だか変なものです。
このおおらかさ、音楽の世界では通じないです。音程はあくまで正しく、リズムはきちっと正しくという訓練をうけるわけで、そこを外してしまうと落第点です。コンクールでは予選も通りません。
でも言葉のこういう曖昧さ、おおらかさは捨て難いものだと思っています。同じように音を使うのにこんなに違うものだというのがとても嬉しいのです。
楷書がいいのか、行書、草書がいいのかということでないように、音楽が正しくて言葉は曖昧で正確さがないというのは違うと思います。
言葉を発音するというのは音楽の音よりも実際には難しいところがあると思います。
オペラの世界では色々な国の人が、色々な言葉のオペラを歌っています。言葉は正確ではないくてもメロディーの音が合っていれば聞けるからです。ところが演劇の世界になると、ドイツの劇団にはよほどでない限り外人はいません。演劇の言葉は外人ではこなせないのです。発音にお国柄の癖が出てしまうのです。ドイツ人のようなアクセントがつけけられないのです。日本語でも同じ様なもので、主役がアメリカアクセントではピントが合わなくなってしまうのです。
言葉のが曖昧でいいと言いながらここでは言葉の力のエネルギー、厳密さが取り沙汰されてしまいます。矛盾です。
でもこういう矛盾があることが、言葉と音楽のことを考えているときに、いろいろな広がりを感じて楽しいのです。
2024年6月10日
YouTubeを見ていると誰かが言い始めたことが段々と広がってゆくようです。
コピーの原理です。
中国料理の凄腕の料理人さんにいつも美味しい料理を食べさせていただいていたのですが、その方が、料理は誰の真似をしてもいいのだと言っていたのですが、最近のYouTubeの料理番組?を見ていると色々なパクリをやつているのが見え見えで気分が悪くなります。正直にどこで習ったとか言えばいいのですが、あたかも自分で見つけたような口振りでいうのが後味が悪いところです。
実はシュタイナー教育というのも随分パクられているのです。あたかも自分で長年研究して見つけたように学者先生達は言うのですが、シュタイナーの中で長年やっていると、あちらこちらから時々そういうコピー教育学が現れます。学問の精神に反していると思いながら見ています。
今はまだ夏ですがクリスマスの頃になると、幼稚園や保育園の窓には、昔はシュタイナー幼稚園にしかなかったようなものが貼り付けられています。ですから、それだけ見ていると区別がつかないようなこともあります。
レシピ化するということで広まったのは世界の三代料理と言われるフランス料理です。これもその中華の料理人さんが教えてくれたのですが、いい意味で「みんなが作れるようになった」のだそうです。フランスばかりでなく、ヨーロッパの至る所で、アメリカ大陸でも、そしてやがて日本でもそのレシピで作ればフランス料理として食べられるようになったのです。こうして世界のフランス料理になったのだそうです。
レシピ化すると広がるのは早いようです。基本的には真似ですから。もちろんレシピ通りに作ったからと言って本物のフランス料理になるかというとそんな簡単なことではないのですが、表面的に見ればフランス料理として通用します。そうして世界中にフランス料理風が広がったという訳です。似たようなことはシュタイナー教育の周辺でも起きています。
シュタイナーはアントロポゾフィー、人智学をレシピのように理解しないでほしいと繰り返していました。これは同時にシュタイナー教育にも言えて、フランスに持ってゆく時にはフランスの文化に見合ったカリキュラムが必要だと言っていたそうです。ところがいざフランスに作った時には、ドイツでのカリキュラムをそのまま持っていってしまいました。その後はどこの国でもドイツのカリキュラムが使われ、広まってゆきました。ヨーロッパを超えてアメリカ、アジア、アフリカに行ってもドイツのカリキュラムの延長のシュタイナー学校です。
シュタイナーは苦笑いしていると思います。
フランス料理がレシピ化されて広がったようなものと見ていいのでしょうか。
先日文明はコピーされものだと言いましたが、まさに文明花盛りという感じです。
文化はそう簡単にはコピーできないものですが、そこにも文明に毒された考え方、気配は忍び込んでいるようです。レシピ化というのは文明の利器なのです。
いま感じるのは文明の発達はそろそろ飽和状態になるのではないかということです。人間は別のものによって満たされたいと思った時に、新たに文化への関心が目覚めるのではないかと思います。そうなった時に文明の方に文化から逆輸入できるようになると面白いものになるかもしれません。
シュタイナー教育も料理の世界も文化の産物であってほしいと願う限りです。