自動車も電化商品

2024年6月9日

このところずっと2月の講演の講演録を作るのに時間が取られていました。

録音が悪く聞き取れないという苦情が多く、文章化するというふうにしたのですが、原稿起こしと録音を聞いても原稿にならないくらい音質が悪く、しかも聞こえないところがある穴だらけの録音で、結局メモを手がかりに新しく書き下ろすという形になりました。

自分の下メモがあったのと、その日会場で聞いた方のしっかりしたメモを手がかりに文章にすることができました。

 

ということで久しぶりのブログです。

今日は自動車が電化してしまったということを書いてみようと思います。私にはプラモデルが道路を走っている感じです。車のことがわからなくても車が作れてしまう時代が来ました。

何でも電化してしまう時代です。そんな中でとうとう自動車まで、電化商品になってしまいました。便利さを追求したり、環境に配慮されたりと、大袈裟な宣伝がなされていましたが、あの手ののプロパガンダは信じるに足りないものです。素人がこねくり回しているだけで車ができちゃったんで、何だか車の格が下がった感じです。絵画の印刷されたもののような感じです。何枚も印刷できてしまうのです。

電化してゆくと、人間が怠惰になってゆくような気がしてならないのです。冷蔵庫、洗濯機、掃除機そして時計、まだあります、家は電化されて、暖房、クーラー、台所もみんな電気です。電化する前とそれ以前では随分生活感が違っていました。電気漬けになると、文明の先端にいるような感覚になるようです。

 

冷蔵庫が電化と言ってわかる人の方が少なくなってしまったようですが、昔は氷を入れて冷やしたものです。毎朝氷屋さんが来て一貫とか半貫とか買って(一貫は3.75kg)冷蔵庫に入れて冷やしたのです。朝来る氷屋さんがノコギリで大きな氷の塊を切り出す時に出てくる、木でいうところのノコギリの粉のような氷屑が美味しくてよく食べたものです。電気になってからは塊の氷とは、かき氷の時以外には縁がなくなってしまいました。食べてもとても美味しい氷でした。今でオンザロックにはよく使われているということです。

掃除機の電化は、我が家では随分後になってからでした。でも掃除機の後ろから出てくる暖かい風が嫌いで、逃げていました。本当に綺麗になっているの、舞い上がった埃はまた落ちてきているのかなどと考えていました。今では掃除機でないと綺麗にならないと思っている人がほとんどです。今は充電式ですから、昔の箒のように使える掃除機まで出回っています。

洗濯機が一番生活を変えたかもしれません。洗濯機以前は手で、洗濯板の上をゴシゴシと擦っていたのが、放り込めば綺麗になるのですから、この上なく便利で、主婦を一番助けた立役者です。その後乾燥機も出てますます便利になって行きました。

時計がクオーツで電池で動くようにしたのは日本のセイコーです。リューズ式、自動巻き以上に正確な時計ということで画期的な発明と言われました。起きっぱなしでも一年とか二年は電池がある限り勝手に動いていますから、ほったらかしておいていい時計ということになります。

暖房も冷房も電気がやってくれます。こたつも電気炬燵です。台所が釜戸から電気へと移行して、これでほとんどが電化されたことになるのでしょうか。お湯も電気で温められますし、お風呂も電気です。

そしてついに自動車が電化製品になったので、人間の生活は電気漬けになったと言えるかもしれません。電車はいち早く電化されていました。

どんどん電気を作らなければならなくなっています。化石燃料はダメですから、石炭、石油は燃やせないので、風力発電か、ソーラー電気です。絶対量が足りなくなることは目に見えています。すべての自動車が電化されてしまって困るのは電気の量です。石炭も石油も使えずに余ってしまうのですが、使い道は閉ざされています。原子力は最大の敵ですからご法度です。どこにも出口のない問題を抱え込んだことになっているようです。まるで空想小説のような、あり得ない世界が近々登場するのでしょうか。でも誰がこんな嘘みたいな話を本気で進めているのでしょうか。

 

 

 

雑学の大家

2024年5月28日

話の面白い人は決まって雑学が豊富です。よくもこれだけたくさんのことを知っているもんだと感心してしまいます。

以前にそうした雑学人に、どうしてそんなに沢山知っているのかと聞いたのですが、答えは、たくさんの人と付き合うからということでした。自分でがむしゃらに勉強したことって案外つまらないものなのだそうです。人から聞いたことっていうのは、直感の様なもので向こうからやってくるんです、ってことでした。

雑学は向こうからやってくるはけだし名言でした!

雑学というのは、どうでもいいと言ってしまえばどうでもいいことばかりです。その知識に方向性がある訳ではなく、ベクトルの定まらないものですが、その漠然としたところに魅力があるような気がします。

シュタイナーを読んでいると恐るべき霊的雑学に目眩がするのです。一見バラバラなことがあるときまとまってしまうのです。まさに名人級です。ですからシュタイナーの講演は音楽を聞くように読んでいます。

実は音楽にも雑学的なものがあると思っています。私達は有名な音楽家の作品を聞くことが多く、それに慣れているというのか、慣らされてしまっていて、そういうものだと聞き流してしまいますが、ラジオを聞いている時に、無名の作曲家の作品が流れることがあり、聞くでもなく聞いていると、つまらないのです。何がつまらないのかと言うと、聞かせどころばかりがつながっていて、無駄がなく息詰まってしまうのです。それによって曲全体というものが見えてこないのです。

偉大な音楽には、特に大曲などでは、誤解を覚悟でいうと、雑学みたいなどうでもいいフレーズが散りばめられていて、それだからこそ聞かせどころが輝いて聞こえるのです。全体に余裕があるのです。音楽が全体として聴けるのです。

雑学というのは余裕であり、しかもユーモアでもあります。ですから音楽も、お話も、講演もそれによって滔々とながれます。これは紛れもなく豊かさに通じるものです。

ためになることばかりでなく、雑学がたくさん詰まった大袋をしょって生きてゆきたいものです。


 

機械づくり

2024年5月28日

人間はいつまで機械づくりにこだわり続けるのだろう。機械のほうが優秀だとわかるときに終わりを迎えるのか、やっぱり人間のほうが優秀だと言って終わりにするのか、どっちでもいいのですが、どうやらもうしばらくは続きそうな感じです。

しかしなぜこんなに機械にこだわるのかやっぱり気になります。

他にもこんなにこだわっているものがあるのかと探してみると、人間は法律とかルールを作るのも大好きなようです。実際、法律やルールがない社会なんて考えられません。他人を支配するためのものに法律が使われることもあります。とても怖いものです。自分の権利を護るために法律で固めることもします。人権のための法律が権力と結びつくとパワハラ以外の何物でもなくなってしまいます。歴史の不幸はここに多くが見られるようです。

機械も法律も単なる道具である線を越える時が来てしまう様な気がします。すでに法律の精神が権力に牛耳られてしまっている様な気がします。未来はなんだか不吉な予感に満ちていますが、明るい未来を信じたいものです。

機械づくりが無事終わった暁には、人間はどんなことをしているのでしょうか。機械づくりから、人間味のある手工業のような、あるいは手作りの物づくりに戻れるのでしょうか。もちろん簡単に移行するものではないでしょう。しかもそこには新しい価値が見出せれるという条件がついてきます。

ということは、今一番しなければならないのは、新しい価値を見つけることです。出世、お金というものに突き動かされた社会が長く続いています。もうそろそろ違う価値が生れてもいい頃のような気がするのです。気をつけないとただヴォキャブラリーが変わっただけということにもなりかねません。ヴォキャブラリーが変わっただけで根底の価値観が全く変わっていないものが横行します。「今の若いものは」、という言い草はだめですが、若いからと言って決して新しくないということも心得ておく必要があります。目新しそうなところに惑わされてしまうのです。ここが一番難しいところです。そうしないとシュタイナーが言う、唯物的精神主義なんて落とし穴に落ちてしまいかねません。

価値観の変換のことをこれからも考えてゆきたいものです。