2024年5月26日
日本には世界で一番短い俳句という詩形が存在します。今では世界的に有名になっていますが、この短さはどこまで行っても驚異的です。普通にはこれで何かが表現できるのかと考えてしまう短さです。暗号とか記号とかならまだしも、立派な詩なのですから驚きです。普通に会話するような言葉遣いからでは到達しない異次元の世界です。まさにこの不可思議な短さに世界は注目しているのです。注目しているいるだけでなく、それを自分の言葉でもやり遂げようと悪戦苦闘しているのです。側で見ていて日本語という神秘語に近づくための努力は痛々しいほどです。
言葉というのは言葉の意味と、言葉のつながりからなる方程式なので、言語学的な説明からだけでは十分でないところがあります。この二つを兼ね合わせた日本語方程式に近い言葉は、私が知る限りない様です。
散文の世界に目を転じると、今度は世界で一番古い長編小説、源氏物語があります。一昔前までは物書き、小説家は源氏物語に憧れてものを書いていたのです。紫式部のかいた源氏物語は今でも日本文学の頂点にあると言っても過言ではないと思っています。書の世界でも紀元前に生きた王羲之の書が今でも頂点にあるように、源氏物語も千年経った今も頂点にあるということは、書にしろ文章にしろ時代が下がるに従って、進化するのではなく退化しているのでしょうか。
源氏物語は日本から世界に出て行くと不思議な環境に身を置くことになります。日本人の読者より日本が大好きという人たちの間での方が熱心に読まれているのです。そして彼らはそこから日本の本質を熱心に感じ取ろうとしているのです。文化の間に交わされる異常なまでの情熱には目を見張るばかりです。
今は漫画とアニメがその役を担っている様ですが、アニメに至ってはそのままのコピーや海賊版が世界中に出回っています。しかも自分の国のものだと言い張る国があり、どうしてそんなことが罷り通ってしまうのか不思議でなりません。文化への敬意の不足しか感じないのです。
文学は俳句にしても、小説にしてもコピーできないというところにその本質があるようです。
文明の力、コピーが通用しないのです。翻訳機が進化して今では至る所で大活躍しています。ありがたい進化です。世界の会議場などの重要なところでも同時通訳ができるほどの性能が知られています。しかしそれは単語と文章を記憶させて途方もない記憶の量から導き出されてくる物です。したがって時には人間の通訳者より正確かもしれませんが、言葉は機能しているだけで、温かみがないのです。
コンピューターが小説を書く時代です。しかしどのような精神性がそこで仕事をしているのかとなると、不明な点が多くあります。将棋やチェスの世界ではコンピューターが人間を凌駕してと言われる時代ですが、将棋やチェスがそれによってワクワクするものになったかというとそんなことはなく、勝負に強いというところだけが突出しているではないのかと勘繰ってしまいます。
AIが描く絵も、詩も小説も同じです。優れているという基準を満たす作品を統計的に整理して集大成したものです。例えば機械で最高の寿司職人の握りを統計的に整理して覚えさせたもので握られた世界一の寿司が本当に寿司を食べるという状況を満たしてくれる物なのかどうかは疑問です。一般的には最高の寿司ということになるなのでしょうが、また食べたいと思える物なのかどうかは、まだ食べたことがないので何とも言えません。AIはグルメ料理とは戦えるかもしれませんが、家庭料理の世界では歯が立たないのではないかと思っています。家庭料理は間違いだらけの世界だからです。
文明とは最高の精度で集積され整理されたコピーの世界のことかもしれません。文明の根底にあるのはコピーの精神なのです。モノマネです。今日の世界の大都会を見るとよく似たものになっています。高層ビルを乱立させることが文明のステータスだからです。そしてデザインは意匠を凝らし違っても、本質的な感触は似たり寄ったりのものばかりで見ていて飽きてしまいます。畢竟コピーだからです。コピーはこれからも、どこまでも進化し続けます。どんどん正確にコピーできる様になってしまうのです。そうなると世界中が似たものになってしまうかもしれません。みんなおんなじになってしまうのです。これが文明の宿命です。
文化の使命は反対だと思っています。文化とはどこまで行ってもコピーできないものだからです。
今日本に外国からたくさんの人が来る様になって、口々に日本の文化を知りたいと言っています。ところが、コピーできるものだけ持って帰っていただいても文化ではない様な気がするのです。文化を支えているものは、コピーできないものだからです。同じではないという気骨が精神を支えているのかもしれません。精神は案外頑固な物なのです。この超えがたい距離が何とも文化なのです。
ただ今のAIの進化は文明から文化に近づいているのかもしれないと感じることがあります。もうすぐ、勝手に考える様なAIが生まれる可能性もなきにしもあらずなのかもしれません。そうなるとますます文化が磨かれるチャンスが増えるということです。違っていること、同じでないことが輝き始めるのかもしれません。
2024年5月24日
ドイツでのことです。買い物などでレジの人が突然日本人ですかと話しかけてくる事があります。ここ数年よく見かけるようになったことなのですが、最近は特に増えているような気がします。その人たちはいろいろなことを通して日本のことに興味を持ち調べているようで、私が中国人でも韓国人でもなく日本人だということは、秘密裏に鍛えた嗅覚でわかるのだそうです。
そして必ず言うのが「絶対に日本に行ってみたい」ということです。何がいいのかと聞くと「全て」という答えが返ってきます。食べ物、神秘的なほどに正確に機能する鉄道、風景、人の優しさと礼儀と数え上げられないほどの事例が飛び出してきます。
聞いていて悪い気はしないのですが、なんとなくミーハー的な気がしないでもないので、案外素気なく「そうですか」と言ってしまいます。
一方で、YouTubeを見ていて、よく日本が自我自賛をしているような動画に出会うことがあって、その度に背筋をゾッとさせています。自画自賛は精神的に不健全です。誰が作っているのかは知る由もないのですが、私ば文化を支えているものは奥深いものだと思うので、一つの現象を取り出して自画自賛するのはどうもと思ってしまうのです。
こんなことを考えているのです。
一度自分の育った文化を徹底的に否定してみてください。そうして初めて見えてくるものがあります。再評価といったプロセスがどうしてもあってほしいのです。ただベタ褒めしているだけでは、自分のことも他人のこともです。程度が低すぎると思ってしまうのす。鬼の首を取ったような調子で語る人たちには傾ける耳を持たないのです。思想集団の中によく見られる、自己批判のない傲慢な輩と同じに見えてしまうのです。
ドイツでも日独友好の会などがよく催されているのですが、私はほとんど顔を出しません。日本のことを気に入ってくれるドイツ人がいることは「いいことだ」とは思うのですが、どことなく気恥ずかしくもあるからです。
もちろん頭で考えるよりもまずは好きになることが、あることを理解する一番の近道だと思うのですが、もう少し距離を置いてみていただきたいと思ってしまうのです。
私の中には一度自分の文化、日本の文化を否定した過程があるので、そこをやたらと褒められても、ただくすぐったいだけなのです。そんな時はいつも心の中で、あなたはご自分の文化を否定したことがありますかと言っているのです。ドイツ人には「バッハなんか糞食らえだ。あんなインチキな音楽なんか聞けたもんじゃない」と心から憎んだことがありますか、ということを言いたくなります。そうしないと自分の文化以外の文化の本当にいいところが見えてこないからです。ドイツ的にみて日本がいいところというのでは驕りにすぎなくて、十分ではないのです。
異なった文化に近づくために必要なことがいくつかあると考えています。まずは好きだということです。これは大前提のような気がします。恋愛感情でも好きが全てに先行します。損得感情で恋愛は長続きしないものです。そしてその文化と関わりを保つためには、リスペクトが必要です。その文化に心からの敬意を持って向かい合えるということです。尊敬の念は他の全ての関係と全く別の次元のものです。特に利害関係というのはとても表面的なものですから、それだけでは表面的で長続きしないものなのです。そして自分の文化に一度否定的な距離を持ったことがあるかどうかです。他の文化の中で自分が蘇ったかどうかです。
2024年5月16日
バッハの音楽を弾いている時に「危ない」と思うことがあります。恍惚となってしまうことです。これは演奏している時だけでなく、彼の音楽を聞いているときにも起ります。若い頃に初めて教会でバッハのロ短調のミサを聴いたとき、合唱で歌っている人たちのあまりの恍惚と陶酔した表情が怖くなったのです。それ以来バッハの音楽に近寄らないようにしていました。
文系の人が感動したりしてうっとりと恍惚状態になるのとは違って、どちらかといえば理系の恍惚です。数学はあまりに純粋すぎて、時々嵌ってしまうもので、嵌ったら最後そこから抜け出せないということが起こるのです。バッハの音楽にはそういった吸引力があります。理系の吸引力です。しかもとても強い吸引力で、ぐいぐいと引っ張られてしまいます。
チェロとバイオリンのための無伴奏の作品はバッハの最晩年のものですから、バッハの到達点だといってもいいものです。最後は一人で弾くための音楽を書いたのです。
ピアノという楽器はそもそも一人で弾くことが多い楽器です。バッハはそのためにも前奏曲とフーガからなる二十四曲を作っています。同じ頃にゴールドベルク変奏曲が書かれています。そして最後はフーガの技法で締めくくります。
今はハンブルクの北ドイツラジオシンフォニーオーケストラを指揮しているエッシェンバッハは若い頃はピアニストとして活躍した人です。日本に何度もピアニストとして来日しています。彼は複雑な生い立ちの持ち主でした。そのことと関係しているのだと思うのですが、ある時「ピアノを弾く孤独に耐えられない」とピアノを捨て、指揮を学び、指揮者として活躍するのです。
ピアノというのは孤独のなかでいることが苦にならない人の楽器なのだと彼の言葉から教わりました。優れたピアニストがアンサンブルでは一人で突っ走ってしまたり、制裁を欠いてしまうことがあるのは、彼らが一人で音楽することに慣れてしまっていて、他の演奏者への気配りができないからなのです。バランスの取り方がわからないのかもしれません。
もちろんどちらもこなしている演奏家もたくさんいます。私の尊敬するチェリスト、エマヌエル・フォイアマンは独奏よりもアンサンブルで光っていました。こんなにアンサンブルのうまいチェロの演奏家を知りません。シューベルトの三重奏のリハーサルで、初めにピアノとヴァイオリンが練習していた時に、二人の間がギクシャクしてうまくゆかずにいたのだそうです。そこにフォイアマンが入ってくるとなんの問題もなかったかのように音楽が流れるのだそうです。彼は素晴らしいユーモアの持ち主だったということですから、人の輪を調和する能力があったのでしょう。彼のアンサンブルにはそれが遺憾無く発揮されていて、最高の演奏になっています。アンサンブルこそが音楽の醍醐味だと知っていたのでしょう。ちなみに彼はバッハの作品を例外的にしか弾いていません。わかるような気がします。
実は私もライアーを一人で弾くことが多いです。いやほとんどかもしれません。しかし今までに何度か歌の伴奏をしたことがあります。シューベルトのリタナイ、バッハ・グノーのアヴェマリア、スペインのクラナドスの歌曲、日本の宵待ち草、カッチーニのアヴェマリア、フルート一と緒にグルックの精霊の踊りなどですが、とても楽しいアンサンブルでした。しかしライアーのアンサンブルは本腰を入れてしたことがありません。他の人が上手すぎるのと、音の違いが気になるからです。
でもこれからはそんな機会もあるかもしれません。