五月のオーロラ

2024年5月13日

私の誕生日を祝ってくれたかのように世界各地で見られたオーロラは、私が住むシュトゥットガルトでも短い時間観察できたのだそうです。真夜中のことで見ることができませんでした。返すがえす残念です。写真で見るととても鮮やかな赤に満天が染められています。

強烈な太陽風の煽りを受けてことだったそうです。十一年周期と言われている太陽の活動のサイクルからすると来年がピークにあたるそうなので、まだオーロラに出会える機会は向こうい一年の間度々あるのかもしれません。

昨年日本からドイツに北回りで帰る時、真夜中に北極の上を通過した時に機内の窓からオーロラをみることができました。地上から見上げるように見るのとは違い、空の上からのオーロラはまるで巨大なカーテンが空に浮かんでいるような雄大な姿でした。色は私が見た時は白に近い色でしたが、ほとんどが色を帯びているということなので、飛行機のガラス越しだったために色が失われていたのかもしれません。いずれにしても初めて見るオーロラには感無量でした。

知り合いにはオーロラを見るために何度も北欧に出かけて行く人がたくさんいますが、必ずしも見て帰ってきているわけではないので、飛行機から見ることができたのはラッキーの一言です。

同じ空を彩る虹の発生と夜空に広がるオーロラとは全く違うことが起こっています。虹は太陽の光と空気中の水蒸気の関係で生まれるもので、虹が発生している場所を指定することはできないのです。たとえ測定できたとしても、そこを観測してもなんら異常らしきものは観測できないのですが、オーロラは太陽の活動から発生するフレアにる太陽風が地球を取り囲む大気圏にぶつかることで生まれる現象です。この太陽風というのは私たちの生活に色々なアクシンデントを及ぼすもので、GPS、つまりナビに異常が生まれたりします。海を航海する船の位置決定に異常が生じるのは大変危険なことなで、毎回注意が促されます。時には地上の発電所にまるで落雷のような形で電磁波が流れ込むことがあって、アメリカのカリフォルニアで何年か前に発電所が大火事になったという報告がありました。

地球の気象にも大きな影響力のあるもので、気温の変化に影響が大きく、温暖化の大きな原因に数えられているものです。

オーロラを目撃できるのは嬉しいことです。今回のオーロラはしばしば観測されている北海道ばかりではなく、兵庫県でも見られたということです。しかも世界各地で同じように多く観測されています。

全国各地、三十にも及ぶほどの広い地域でみることができたということなのですが、向こう二日ぐらいはまだ期待できる可能性があるということですから、ぜひもう一度太陽には頑張って太陽風を地球に送っていただき、オーロラを再現してもらいたいものです。

 

私は一度だけの体験ですが、あの巨大なカーテンは忘れ難いもので、とんでもないものに出会ったという感動は今でも鮮明に思い出すことができるものです。もしかすると何度も見るというのがいいのではなく、かえって一回きりというのがいいのかもしれません。今日のような、なんでも記録できると考えられる時代には、この一回きりという体験は案外大切なものなのかもしれません。

一つの本を何度も読むとは

2024年5月7日

気に入った一冊の本を何度も読みます。音楽でも一つの作品にしつこいほど付き合います。何度も読む、何度も聞くということなのですが、小さい頃からそうだったのかというとそんなこともないようで、多分二十歳の頃から始まった癖のようなものだろうと思います。

もしこれを心理学に詳しい人が読んでいたら、専門的な病名が浮かんでくる様なものかもしれません。

最初のきっかけとなったのはモーツァルトの伝記です。モーツァルトの音楽が好きでしたから彼の人となりをもっと知りたいと手当たり次第モーツァルトについて書かれているものを読みました。作品解説だけでなく伝記にも目を通しました。同じ人物の伝記を何種類も読むという初めての体験でした。

興味深かったのは作者によってモーツァルトのイメージが違うことでした。はじめは少し面食らいましたが、そのことに気付いてからは、伝記というのは半分は史実や生い立ちから取ってこられている訳ですが、残りの半分は、もしかするとそれ以上が伝記作者の創作だと言うことに気づいたのです。一見客観的に見えても思い込みのようなものではないかと思ったりもしました。

最初は各人によって違うことが気になったものですが、そのうち違うことが気にならなくなって来るのです。そして字面の向こうにぼんやりとモーツァルトのイメージが浮かんでくるのです。もちろん主観的なものです。私は霊能力などというものは持ち合わせていませんから、それらしきものは一切見えないのですが、心象として、イメージとして感じるものがあったと言うことです。残されている肖像画に似ていることもありました。

音楽も基本的には同じで作品の向こうに別の手ごたえを感じるようになります。親しい友達の様な感触で大切にしたいものになるのです。そこまでくると、この作品を知っているとか、この作品が好きだというレベルのものではなくなっていて、毎日使っている大好きなお茶碗の様なごくごく日常的なものになっているのです。

アンサンブルの味

2024年5月6日

先日お亡くなりになった小澤征爾さんが中国の上海に招待されて、上海のオーケストラを指揮された時のことを、国文学者のお兄さんとの対談の中で話していたのですが、オーケストラの指揮台に立ってびっくりしたのは、全然音がまとまらないということだったそうです。あちこちからバラバラに音が聞こえてくるのだそうです。

中国は当時も一人っ子政策が敷かれておりました。みんなが一人っ子という社会状況を考えただけでもゾッとします。しかも音楽教育というのは大概、中国に限らずスパルタで英才教育です。一人一人を見れば技術的に訓練されているのに、いざオーケストラとして一つの作品を演奏する段になると、一人一人がバラバラでオーケストラとしてのまとまりが感じられなかったのだそうです。それはなんと言ったらいいのか言葉に詰まってしまうほど奇妙な音楽体験だったということです。

このことは中国人のオーケストラに限ったことではないと、私の音楽経験は言います。例えばピアノ三重奏などを聞いていると、よく経験するのは、ピアノとヴァイオリンとチェロの三人でグループを組んで活動している人たちの演奏と、有名なピアニストとヴァイオリニストとチェリストに声がけして著名な音楽祭などのために臨時のグループを結成したものとの演奏の違いです。

三人のソリストによって作られた即席グループの演奏は、一人一人が実力者の集まりですから、上手ですし、それなりに聞き応えがあるのですが、バラバラな印象を持つこともあります。時々あるというよりも大抵アンバランスなのです。もちろんアンサンブルに慣れた人かそうでないかの違いは大きいですが。

ピアニストの多くは普段ソリストとして一人で演奏することに慣れています。したがって他の演奏家と合わせるタイミングが見つけられないようで、歌やヴァイオリンなどの伴奏の時には相手の音楽が聞こえてこないのではないかと思うようなものがあります。共同作業が成立しないのです。

私がかつて歌を歌っていた時のことです。色々な伴奏者とご一緒しましたが、伴奏という仕事が特別なものだとつくづく感じたものです。幸い私の場合は経験豊かな方達が伴奏をしてくださいましたから、困ったことはなかったのですが、同じ曲でもタイミングや音の感じ方などに違いがあるのが面白く、それを楽しんでいました。

リズム感というのは、なかなか変えられられないもののようで、人それぞれに随分違います。他の人と合わせる時にはテンポと同様に意外と曲者です。これは音楽に限ったことではなく、同じプロジェクトで何人かと組んで仕事をしてみるとよくわかります。

特にテンポは悩みの種です。必ず他の人とテンポが合わせられない人というのがいるんです。自分のテンポを主張したら絶対にうまくゆきません。相手に合わせるという姿勢が要求されます。音楽のアンサンブルの時には、ただ合わせるだけでもダメで相手と一つになろうとする働きかけがないとまとまらないのです。

人生は音楽によく似ています。音楽の基本は聞くことだとつくづく思う時です。人生もです。いくら言葉で説明しても合わないものは合わないのです。頭で、理屈でわかるなんて大したことではないのです。生理的に合わないのです。

きっとこんなことがアンサンブルを組む時にはいつも起きていて、いつも同じ人とグループを組んで演奏活動をしている場合は、息も合ってきて、阿吽の呼吸の領域で演奏できるのでしょうが、臨時のグループにそれは要求できないことです。きっとそこはそれぞれの知名度でカバーしているようです。

 

小澤征爾さんが指揮台に立って指揮棒を振った時の上海のオーケストラの音を聞いてみたかったです。音楽であって音楽でないと言ったものだったのではないかと想像します。しかしこれは一人っ子政策によるものなのか、歴史的にみて感じる中国独特のものなのかはわかりません。いつか放送された上海オーケストラの演奏を聴きましたが、味付けができていない料理のような印象を持ちました。音楽というものは相手を聞くことがないと、味が生まれないということのようです。

日本では利き酒という仕事がありますが、これも「きく」ことなので、音楽で聴くことがうまくできていないと、そこからいい味か生まれないというのは、この辺と関係しているのかもしれません。

いいアンサンブルの演奏は確かに美味しいです。