専門家と天才とアマチュア

2025年1月8日

専門家には専門家の美しさがあります。いっしようをその仕事に捧げた姿は凛として、私の背筋が伸びます。

またアマチュアにはアマチュアの清々しさがあります。そこに見られる違いは明確ではないですが、やっていることを生業としてやっているということだけではないようです。

アマチュアという響きはプロとは違って緩いものを感じますが、昔読んだ本の中に、イギリスにはプロ以上のアマチュアが生まれる土壌があるというのです。気骨のあるアマチュア精神のことです。アマチュアというと一見暇人にもみえなくもないですが、生涯アマチュアを通すというのですから、プロの意気込みとは違った気骨のある人たちには違いありません。

ここでいうアマチュアというのは素人とも違うものです。本気です。イギリスのアマチュアはイギリスのアマチュア気質なので、日本人的国民性には見られないものかもしれません。だからでしょうか、それを読んだと時にすごく憧れたのです。教えてくれたのは平凡社の百科事典の初代編集長の林達夫さんでした。哲学的な仕事をされる傍ら岩波文庫のファーブルの「昆虫記むやベルグソンの「笑い」の翻訳者でもありました。彼そのものがアマチュア精神を生き抜いたような稀有な人でした。

物事を成就するにはいい意味での執着が必要です。天才的な人たちはみんな何がしかの執着に突き動かされているようです。時には悲劇的でそれで燃え尽きてしまう人もいます。アマチュア精神はムキにならないことでその執着から解き放されているわけです。ただアマチュアとしての執着は持っているのです。ここが分かりにくいところです。

アマチュアのこだわりを見つけることが私の今年の課題のようです。

芸の道はその答えを示しているように思えてなりません。

いつまでも終わりがないものだということです。一生は短く芸の道は長し。

初めては飽き、飽きてからまた始める。いい加減さの持続。

 

特別な人

2025年1月8日

年末年始は友人と会う機会が多くなります。一年の締めくくりという口実をつけて飲み会などをするのですが、古くからの友人だけでなく、たまに初めて会う人も紛れ込んできたりします。それはそれで楽しいものです。今年はドイツの中に限っていうと何人かの新しい人と会う機会がありました。

その度にいろいろな人がいるもだと感心してしまいますす。初めてなのに初めてを感じさせない人もいれば、以前にあったことがあるのに、いまだに馴染めないといった人もいます。

そんな中に、自分は特別な人間だと言いたげに振る舞っている人がいて、気分を害していました。私にとって特別な人というのは、きっと本人は何も特別だとは思っていない人のことでなのですが、その自称特別な人は自分を特別と思っているだけなので、鼻持ちならない輩に属しているので本来なら会いたくないような人種です。

本当の意味で特別な人は透明感があります。ところが自分を特別と思っている、自称特別人は透明とは縁遠く、薄汚れていて、濁っています。一緒にいると不愉快になるオーラをむんむんとさせています。

自惚のなせ技だと確信しています。なのですが、いついかなる場にあっても特別扱いされたがるわけですから、一緒にいると疲れます。特別扱いされたいがために出世街道を歩く人もいます。議員さんなどは制度的に特権を使い放題できる特別階級ですから、特別扱いされたい人たちは議員を目指すと言われたことがあります。私にとって議員というのは本来そのような意識でなるべきものではなく、奉仕精神の塊のような人がなるべきものなのに、現実は全く反対で、特別扱いされたい気持ちが優先してしまうのでしょう。

その人たちは権力を振り回したがる人とは違います。特別待遇を欲しがる人は権力闘争とは別のところにいます。どちらかといえば漁夫の利を狙っているような狡い人です。自己満足が優先的に働いて、それを満たしたいだけなのです。結局は自己満足に終始する質の悪いエゴイストです。

これは人間の業、あるいは性なのでしょうか。いつの時代にも、どこの国にもそういう輩はいるものなのです。人間とは性善説をとるべきなのか性悪説かとも違う、自分が可愛くて仕方がない器の小さい小心者ですから、小児症患者、つまり成人になりきれていない大人ということです。いつまでもガキなのです。大人になると謙虚と謙りの意味がわかってきます。

日本の政治家の大方はこのような傾向にある人の集まりなのかもしれないと思うと、自己満足の満たし合いのような場が国会ということになってしまいますから、お先真っ暗ということになってしまいます。日本だけでなく、自分のことなど省みないイサギの良い政治家がどんどん出てきてほしいと願うばかりです。

新年早々暗い話で申し訳ありません。

鏡にの中の鏡

2025年1月6日

鏡の中の鏡という作品はミヒャエル・エンデがとても大切にしていた作品でした。モモを書き始めた頃から、この小品集に着手し、はてしない物語が完成する頃まで三十の話を書きつづけていたとおっしゃっていましたから、完成まで10年以上の年月が流れています。この間にそれぞれの話の奇怪な方向がズレることなく書き続けられたのですから、エンデの深いところを貫通している、思想と感性そして意志がこの本に結集していると見ていいと思います。

余談ですが、ミヒャエル・エンデのエンデというのは苗字です。意味するところは終わりということなのですが、彼の書く話は「果てしない物語」のように終わりがないものなのですから、名は体を表すとは真逆のことが起っている様です。

この鏡の中の鏡に登場する話はどれも始まりも終わりもないような、空中を無重力に浮いているような不思議を感じさせる話ばかりです。どんな話かと聞かれて、うまく答えられるような話は一つもありません。読んでいる最中は流れに乗っかって連れて行かれるのですが、後で考えても話の筋がどうだったのか皆目思い出せないと言う様なことが起こってしまうのですから、不思議としか言いようがありません。副題が「迷宮」ですから、迷う方が本望で、正当と言っていいのかもしれません。迷っている中で何かに出会うと言うことです。本題は「鏡の中の鏡」ですから、永遠に相対峙した鏡が作り出す鏡像が繰り返されることをイメージしています。鏡像は限りなく小さくなり、終わりがないと言うことになります。エンデ(終わり)という名前は見事すぎる矛盾です。

この迷宮の道先案内人は物語の姿を持った哲学的遊戯です。全ての話は矛盾の連続で、時には前後の脈絡が全く感じられないものすらあります。物語という限界を超えてしまっています。もちろん意図的にその用にしているのですが、それでも話が壊れないのは言葉の力です。この不思議を支えているのはエンデさんならではの考え抜かれた表現を可能にする言葉です。哲学と文学のハイブリッドです。私が大切なことと考えているのは、それらの文章は意味を伝えるものではなく、物語の意志を伝えるものだということです。エンデはこの本で意志を表現すること、物語に潜んでいる意志の表現に挑んだのではないかと思っています。物語の潜在意識と言っていいのかもしれません。語られているストーリーの断片を繋ぎ合わせても物語は辻褄の合ったものにはならないのです。どこかで何かが歪んでいるのです。

エンデは、実は人間の営んでいる人生という代物はもそもそそんなものだと言いたいのかしれません。はじめも終わりもなく、あるのは今だけで、過去でも未来でもないのだと言っているのかもしれません。今を素直に繋げてゆけば、辻褄など合わない、迷宮の様なものなのですが、それが人生だと言うことかもしれません。