ピアノは俗物の楽器

2024年5月4日

シュタイナーはピアノを俗物の楽器と言っているんです。結構激しい言い方ですからピアノが嫌いだったのかと思わせるようないいぷっりですが、そういうこととも違う様なのです。好きだったのかというと、自信はありませんが、特別好きというほどでもなかったのでしょうが、まあ好きだった様に思います。しかし激しい言い方です。ピアノを弾かれる方をがっかりさせるに十分な迫力です。

ピアノといっていますが、楽器としてのピアノではなく、私は鍵盤楽器全般のことだと解釈しています。したがってパイプオルガンもチェンバロもハンマーフリューゲルも俗物扱いです。バイブオルガンなどは教会に欠かせない楽器なのにシュタイナーからは容赦なく俗物です。

この楽器は霊界に原型がないのです。ということは一から十まで地上的な要求を満たすためにある楽器と解釈出来ます。ピアノは普通に言われるところに従えば楽器の王様ですから、音楽をする楽器の中で一番優れていると考えられているのでしょう。確かに交響曲などもピアノに編曲されて演奏できちゃう訳ですから、有能な楽器であることは間違いないのでしょうが、シュタイナーはそこが気に入らなかったのではないかと推測します。何でもできる、万能の楽器なんかは必要ないと思っていたのでしょう。

 

楽器というのはどれもそれぞれに難しいものです。ピアノという楽器はその中でも難易度の高い楽器です。私がお世話になったクニーリム博士は、「ピアノを上手に弾く人は沢山いるけど、ピアノで音楽が作れる人は指で数えられるほどしかいない」というのが口癖でした。もちろんクニーリム博士もピアノが大好きでした。

ピアノに難癖をつける人に限ってピアノが大好きというところが面白いです。

私もピアノ弾き込める人は数えるほどだと思っています。ヴァイオリン属の楽器の難しさとは違う難しさです。ピアノのテクニックに溺れて弾かされているだけでは、ピアノを弾いているということにはならないのです。ピアノの音を音楽の音にまで持って行ける人が少ないのです。ピアノの音のように死んだ音を生き物に復活させるところが選ばれた人にしかできないのピアノなのです。そういう人に弾かれたピアノはイキイキしていて音が全然違います。音が深いですし、透明です。

音楽が一番苦手としているのは、上手に弾くというところです。特にピアノの場合は顕著です。これほど嫌味なものはないと思っています。個性的であろうとすればするほど音楽から遠ざがってしまいます。ピアノが悪臭を放ちます。

ピアノの持つ俗性は演奏者の人格で掬い上げなければならないのです。

人間の角度は360度が理想

2024年4月30日

人間に角度があるようです。また人間を数字で表すのかと言われてしまいそうですが、知能指数のように試験する人がいてテストをして測るのでもなく、血圧のように計器を使って測るものではないので安心してください。全くの自己申告でいいのです。ということは、他人に知られる必要など全くなく、自分で感じていればいい楽な数字です。

人間の視角のことをいう時に言われるのは、一般的には左右に120度くらいだそうです。上下も大体同じくらいです。運転の時にどのくらい見えているのかのテストがありますが、これとここで取り上げる人間の角度とは少し違います。ちなみに聴覚の場合だと200度ほどに広がるそうです。

視野が広いとか狭いとか言いますが、この場合は視覚的な角度のことではなく、視野ですから、肉体的にではなく意識の広がりということです。馬が半分目隠しをされているのを見たことがあると思うのですが、気が散らないためにされています。目の前のことしか皆ようにされてるのですが、このくらいしか世の中が見えていない人もいて、こういう人を視野の狭い人というのです。その人の人間の角度はせいぜい30度くらいでしょうか。自分が見たいものしか見えていないのですから、もしかするともっと狭いかもしれません。

この人は何も見えていないのだと驚かされるような人に出会うことがあります。この角度は頭の良し悪しに並行しているとは限らないのです。頭のいい人ほど人間の角度は狭いのではないかと私は個人的な経験から思っています。研究者などは馬半目隠しのような状態にいる方が、周囲に惑わされないで研究に集中できるものです。あるいは人間の角度が生まれつき狭い人が研究者に向いているということかもしれません。大学の先生から始まって、学校の先生と呼ばれる人たちも押し並べて角度が狭いようです。研究者ほど極端ではないのでしょうが、「先生と言われるほどのバカじゃなし」ということを昔は言ったものです。先生とか教育という仕事を聖職と崇める一方で、先ほどのような言い方もされていたのです。まだあります。「でもしか先生」です「先生にでもなるか」、と先生になる人もいれば、「先生にしかなれない」と先生になる人もいたのです。先生も人間の角度が狭くてもできる仕事のようです。教育がこんな状況でいいのかと心配になります。

専門職になればなるほど、角度は狭くていいようです。専門の専という時は「もっぱら」ということです。専念するということですから、そのことだけに関わっていればいいということです。文明社会は専門家が排出される社会ということです。人間を機能という視点で捉えると角度が狭くても一向に敵わない、いやむしろ角度かせまい方が向いているのかもしれません。人間が機械化してゆくということでもあるようです。

では角度が広くないとできない仕事はなんなのでしょうか。

農業に関わっている人をかつては「百姓」という言い方をしました。今でも「お百姓さん」と愛情を込めていうこともありますが、その意味するところは、「百種類もやらなければならないことがある」ということです。百という数字は形だけのもので実際に数えて得た数字ではありません。いろいろなことに気配りができていないとできないし仕事ということです。植物のこと、土のことなど知らなければならないし、工具や機械のことも知らなければならないし、天気のことにも通じていないと困ることがあるものです。つまり私たちが生きる上で関わってくるほとんどのことに通じていないとダメだということですから、「お百姓さん」なので、専門家の真反対にいる人たちです。

親になることで人間の角度は嫌が上でも角度が広げられるようです。独身の時には自分のことにだけ関わっていればよかったのですが、子どもができると24時間体制が強いられます。そうなると自ずと人間の角度が広げられていまいます。ほとんど360度に向かって全開しているようです。そうでないと親が務まらないのです。

 

人間性、人間の柔軟度はこの角度が示す数値に並行しているようです。地に足がついているという言い方も人間の角度の別の言い方かもしれません。

平均律という大嘘で栄た西洋音楽

2024年4月29日

先日調律のことを少し書いたのですが、今日は平均律の調律を擁護したいと思っています。それは今日の音楽発展には平均律による調律方法が欠かせなかったからです。バッハのピアノ平均律曲集はピアノの旧約聖書とよ呼ばれているものです。土という根音が決まり、ハ長調という基本が定められ、転調が魔法のように自由になったのです。バッハ以前にもリュートで平均律の曲集を試みられたことがありましたが、この曲集はキーボードが出現するまで待たねばならなかったものなのです。

現代、ピアノが楽器の王様とよ派れる理由は色々あるのでしょうが、平均律を確立できたことと、それによって一つの曲の中で自由自在に転調することができるようになったことでそう呼ばれるのでしょう。

 

西洋占星術などで有名な十二宮にはそれぞれの調律があてがわれていますから、一オクターブが十二音というのは宇宙の法則に従ったものとも考えられています。宇宙でどのように調律されているのかは解りませんが、地上でそれを実現するためには平均律的調律、嘘の辻褄を合わせた調律方法が欠かせないのです。ただし同時にそれによって音同士の間には不協音が生じてしまいます。これが人間間のコミュニケーションの不和につながるという人もいます。またそこを厳しく純正律派からは批判されこの調律は純正律を正しいものとする人たちからは悪者のようにみられています。今日の音楽の豊穣は悪の華なのです。

現実はオクターブという枠組みを純正で調律することはできないということです。根音を持つオクターブという現代の音楽に欠かせない枠組みを地上で用いる限りオクターブの中は不純なものにならざるを得ないのです。私は宇宙の響きを聞く能力がないのですが、宇宙はどのように解決しているのでしょう。平均律による調律は、地上で許された音楽的な嘘とも言えます。あまりに美しい嘘です。しかしこの嘘がつけることから無数の音楽が作られたことも事実です。十二の調性は宇宙的音楽の映し絵でもあるのです。もし平均律がなければ、転調という音楽的魔法を操り十二の調性のなかを自由に振る舞うことはできなかったのです。そこで作られた正しい音楽はどんなものだったのかを想像すると、退屈な音楽が聞こえてきます。正しいというのは、芸術的に、精神的にみたとき、つまらないくだらないことでもあるのです。

今はピアノが全盛の時代で、平均律がなくてはならないものですが、これからオクターブという枠をどうするのかということが問題視されるようになると、音楽の基本が変わってきます。根音などという考え方はなくなるのかもしれません。転調などという魔法はもう必要なくなってくるのかもしれないのです。その時にピアノがどのようになっているのかは全く想像がつきませんが、オクターブという硬い鳥籠のようなものはなくなって、音たちは鳥籠の外を自由に飛び回るようになるのかもしれません。

音が、鳥籠の中で死ぬことだけはあってはならないことなのです。