時間の不思議

2024年12月28日

時間は三次元の上の四次元のものと教わった覚えがあります。ずいぶん若い時のことです。その時にはなんのことだか分かっていなかったように思います。ところが最近になってわかるような気がしてきました。本当に気がしているだけです。

ヒントは時間が空間的な扱いを不当に受けていることと、時間の本性は引き算と関係のあるものではないかと気付いたことでした。それからは時間への興味が増し、深く付き合っています。

何故引き算かというと、引き算というのは計算の中でも特殊な世界で、算数を子どもとやっている時に、引き算でつまづく子どもが実に多いのです。そのことがとても不思議でした。つまづく原因を知りたく色々資料を集めたのですが、私が納得できるものには出会いませんでした。

足し算的に増えるというのは嬉しいものです。知識が増えるのは実に楽しい出来事です。ところが、減ってゆくというのは少し違います。不安の原因にもなりかねないからです。不安感というのと関係しているのかもしれません。銀行口座の残高が減っていったら心細いばかりです。

その子どもたちと時計を読むという授業を持った時にはまた新しい発見がありました。クラスにはデジタルの腕時計を持っている子どもがほとんどでした。彼らにしたら時間は数字で表されるもののようでした。ですから文字盤の上を長針と短針が回る時計は彼らにとって珍しいばかりで、時計ではあっても別物だったようなのです。

普通は計算というのは十進法で行います。それなのに、こと時計に関しては10ではなく12まである時間は十二進法だからです。文字盤は12まで数字が書かれてあるのです。この十二進法に相当苦戦していました。しかも長針と短針の扱いは全く別で、短針では3時が長針の時は15分、短針の6時が短針では30分という、あってはならないようなことが起こっているのです。何がどうなっているのか皆目見当がつかないでいる子どももいました。子どもは全体的にパニック状態でした。

文字盤と長針短針をなんとかクリアーした後今度は、今1時15分で2時にお客さんが来ることになっています。2時まであと何分でしょうという質問が待っていました。それには答えられないのです。2時引く1時15分なんてどうして計算するのか想像もつかないのです。計算は数字だけでやるもので、時間とか分などが入ってきてはいけないのです。数字で示されていたデジタルの時計とは同じ時間なのに全然違う世界のことのように感じていたと思います。

子どもが時計の文字盤や志願の計算などで起こしていたパニック状態と、大人が、時間は四次元です、と言われた時に起こすパニックとは、全く想像を絶するという点で似ているように思います。時間というのは知っているようで、実は常識を超えたものに違いないのです。

 

もう一つの問題は、私たちが時間を空間的に捉えられているということです。このことは見過ごされがちですが大切なポイントです。空間的というのは、時間というのは測られるものと考えているからです。そのことになんの不思議も感じていないのです。測定されるということからしてすでに空間の延長に時間を置いて扱っているのですが、そのことはあまりに普通に行われるので考えられないのです。

時間は測れないものと知ることから時間に近づくきっかけが掴めます。例として挙げると、物事に夢中になると、時間はどうなるかというと、消えてなくなってしまうのです。測るどころではありません。話に夢中になると時間が経つのを忘れるのは当たり前なのです。ものづくりも似ています。手仕事などに一生懸命になったり庭仕事に追われていると、時間は普通の意味では経っているのに、あたかも止まってしまったようなものに変わっているのです。時間はあるのに消えてなくなるものと言っていいのかもしれません。

逆に退屈な話を聞かされている時の時間の流れはとても長く感じられます。ということは客観的な時間というのはないと言っていいのです。時間は伸びたり縮んだりしている変幻自在なものなのです。時間を測るというのは、私たちの生活習慣に合わせて便宜上しているだけのことで、実は測ったところで何にもならないものなのです。それどころか測られた時間は迷惑がっているはずです。

このように時間に対して罪深いことをしているのです。本来物質的ではない時間を物質とみなしていることです。初めて見る外国を自国の延長に置いて勝手なコメントをして判断しているような失礼なことなのです。そんなふうに外国を見ても何も見たことにはなっていないのです。相手の土俵で相撲を取るということが必要なのです。

 

では時間とどのように付き合ったらいいのでしようか。

まず時間は在るのに、無いものだと言うことです。流れているのに止まっているとも言えます。物質の法則に囚われていないということです。

こうした特性を私たちは無視して、全く物質的に時間を測って得意になっているのです。より正確な時計を作ることに躍起になったりしているのです。しかし本当の時間は時計の向こうにあるのです。

私たちが感じている時間は、そうした変幻自在な物質では無い時間が物質空間に働きかけているものです。しかしもし時間を測ろうとしたら、測られた時間は時間の死骸のようなものなので、生きた時間とは違います。肉体から魂の抜けた死骸は生前の人とはもう違った存在だと言うのと同じです。死骸でない、生きた時間をどこで見ることができるのでしょうか。

芸術が作り出す一瞬の中にです。優れた建築が作り出す空間の中で感じる至福の瞬間、絵に感動する神々しい瞬間、音楽で体験する光のような瞬間は魂の通った時間だと思つています。一瞬とは永遠の別名なのです。

 

 

 

 

 

シャボン玉の中のようです

2024年12月17日

ドイツと日本の間を三十年にわたり行き来していてるわけですが、いまだに変わらないのは、どちらかの国いいると、もう一つの国でのことがまるでシャボン玉の中に閉じ込められてしまったように感じられることです。

今回も同じで、ドイツに帰って一週間が経ちますが、日本でのことがシャボン玉の中に閉じ込められているように感じられます。キラキラ輝いているのです。

これに似たことを体験された方もあるのではないかと思うのですが、遠く彼方に消えてしまうということではなく、かえって日本で色々あったことが一つに纏まるプロセスなので、大切なことなのです。一つ一つのことを思い出すときにそっとシャボン玉の中から取り出してくるような感じです。ドイツでの生活と混ざり合わずいつまでも新鮮な状態にあるのでありがたいと思っています。

 

ようやく一週間が経ったのですが、一番辛いのは日常の記憶力をまとめている「箍(タガ)」が緩んでいることです。聞いた先からザルに水を流すようにどこかに行ってしまうのです。

ドイツから日本に向かった時にも起こることで、昔は日本に着いて三日目から講演があったりしたので、その時は苦労した思い出があります。疲れに原因があるのでしょうが、記憶体のようなものが肉体に馴染んでいないのです。

これから年を重ねてゆくと、こんなことが日常で起きてしまうのかと思うと、いささか心配ではあります。

 

そんな中でも今朝目が覚めた時には、昨日とはずいぶん違っていて、少しですが前を向いている感じがしました。あれをしなければ、などと俗な思いが頭をよぎるのですから、ドイツに帰ってきたということのようです。

あとは頭が少しづつ回転し始めるのを待つばかりです。

今はまだ文章を書きながら、インスピレーションが降りてきそうな感じがしませんので、プログとはいえ、健康状態の報告だけにしておきます。

 

浜松の楽器博物館

2024年11月29日

浜松に住む中学の時の友人を訪ねがてら楽器博物館に足を運びました。

浜松にはヤマハ楽器と河合楽器があるので、ここに楽器博物館があるのは半ば必然の様な感じがします。二つのフロアーにはぎっしりと古今東西の楽器が敷き詰められていました。

楽器というのは、ある時ある文化の中で生まれているのだという事実に感動しながら広い会館を歩きました。生まれるだけではなく、消えてゆくという運命も印象的でした。

打楽器と笛はいつの時代も盛んに演奏されていたようで、その勢いは今日にも受け継がれ至っています。古くは部族をまとめるための祭りの主役だったりもした様です。戦争の時にも大活躍で、太鼓とラッパから成る鼓笛隊は戦場でも欠かすことのできないものでした。鼓笛隊とは比べ物にならない規模のブラスバンド熱は今もますます盛んな様です。

弦楽器も数多く展示されていましたが、それらがどのような役割を文化の中で果たしていたのかは読み解けませんでした。弦がどのように張られ、どのように演奏されたのかは知る由もない訳です。歴史的な弦楽器では、一番知りたいところが欠如しているのはかえすがえす残念でした。ただ演奏法はうかがえて、古い楽器では弦を爪弾いていた様です。その後弓で擦りながら音を出すものに移行し、今日のヴァイオリン族に至っています。その一方で、ピアノが登場します。はじめは弦を引っ掻いていたのがハンマーで叩くものになり今日に至っています。厳密に言うとピアノは打弦楽器ですから、打楽器への先祖返りと見ていいのでしょうか。

弦楽器は、歴史的には擦るヴァイオリン族が主流になりましたが、爪弾くという演奏法はいつも見られ、二十世紀に入ってギターが注目される様になってからは、爪弾く楽器が人気を集めている様です。ハープ、リュート、チターと多彩な世界です。

博物館にはライアーはありませんでした。

私はライアーがどのような位置付けに置かれるものなのかとよく考えます。弦楽器とはいえ、ギターやハープとは違うものだと考えています。

この楽器は、今までの楽器のように、作曲された作品を奏でるためだけにあるのではない様な気がしています。もちろんライアーで弾かれた曲には、そこでしか味わえない、引き込まれるような味があります。

それ以外の可能性はまだ予感程度にしか垣間見ることしかできないのでしょうが、これからが楽しみな楽器の様な気がしてなりません。