2024年10月27日
以前に文法のことを書いた時に日本語の文法が西洋語のものとは違うことを指摘しておきました。日本語には文法などなく、言葉と言葉を繋げるための規則があるだけだと言いたくなることもあるほどの様なことを言ったと思います。
私たちが学校で習った文章の定義はピリオッドを打って完了でした。ピリオッドを打つまでは一つの内容について発言しているのです。ピリオッドに至るまでに使われるコンマやセミコロンハイフェンなどはその内容を補作するための手段ということなのです。このような文法の法則は基本的に西洋人の思考の写し絵に他なりません。さらに私がよく思うのは西洋語の文法は算数の数式だと言うことです。
では日本語の場合はどうなるのでしょう。日本語という言葉にとって文法、文章の規則、あるはそもそも文章と言うのはどの様なものとして捉えられているのでしょうか。
源氏物語には句読点はありません。と言うことは、通例の文法からすると「終わっていない」と言うことです。西洋的に見れば源氏物語は始まりも終わりもないものですから、西洋語の影響を受けた現代人には理解できないものです。「それで書き手の伝えたい内容が読者に伝わるのか」と不思議がるのではないかと思います。
しかし現実にはそれで十分に内容が伝わっているのです。そこには何か別の文章を成り立たせている力が存在していると言うことなのではなのでしょうか。言葉そのものに別の力が備わっていると言うことです。
私がイメージするのは、西洋語は単語が基礎になっていると言うことと、単語は無気質なものでそれを繋げ意味をつくるために必要になったのが文法だと言うことです。
ところが日本語の場合、単語以前のシルベル、つまり「あいうえお」と言われる五十音が大きな存在で、ほとんど西洋語の単語に相当する意味の暗示力を持っているとことを指摘したいと思います。そのことから西洋語の単語のような無機質なのではなく、つまりゴロゴロした石ではないので、文法のような手段を用いる必要がないのではないかと言うことです。またそこから俳句が可能になると言うことです。要約すると、日本語というのは、言葉そのものに西洋語とは比べられない力があると言うことです。文法など必要としていない言葉なのです。
もちろん日本語にも言葉を使う上での規則はありますがその発想は西洋語の文法とは誓ったものの様です。この違いがうまく説明できれば二つの文化の違いの基本的な違いが見えてくるの思っています。
2024年10月23日
YouTubeで最近の若手の演奏家がどんな演奏をしているのかと覗いてみることがあります。もちろんいい演奏もあれば、面白くもなんともない演奏もあります。年寄りの寝言と聞いていただいてもいいのですが、予想以上に「この人とやっつけ仕事をしている」と感じる演奏が多いことです。あるは「これみよがしの演奏と言うのか自惚れ」も気になります。
私の持つそうした印象は、、音楽以前のこともあります。音楽をする人たちの一面的な人間教育はいつも問題になりますが、音楽的には楽譜で音楽を勉強したことの弊害と結びつくものだと考えています。やっつけ仕事という言い方は少し乱暴かもしれませんが、感情の伴っていない機械的な演奏、大袈裟なパフォーマンスというのも気になるところです。そうした演奏に共通した特徴は、聞いていて疲れることです。いろいろな疲れ方があるのですが、一様に疲れると言うことでは共通しています。
楽譜と言うのは実にありがたいものです。楽譜があることで作品が後世に残るわけですし、何百年も前の作品を今日演奏できるのも楽譜に残されたからで、楽譜のありがたさは百も承知しているのですが、楽譜を演奏すれば音楽になるという考えで音楽をすることになれば本間転倒です。楽譜はあくまでも便宜上のものと知っておく必要があります。文章の時には行間を読むという言い方がされますが、音楽にも似たことは起こっているはずです。音符と音符の間というのか、五線の間というのかは知りませんが、あのお玉杓子の間にあるものが音楽にとっては一番大切なところなのです。楽譜のように見えるものではなく、見えないところを読み取りそれを音にできるかどうかで良い演奏かよくない演奏かが別れてしまいます。
老婆心から加えて言うと、若い人たちは、技術的な練習をすることに専念して、他の人の音楽良い演奏形の良い演奏をちゃんと聞いてきていないのではないか、そんな印象があります。音楽の基本は聞くことから始まるので、聞くと言う練習をたっぷりしないと良い演奏につながらないと思います。
気になるもう一つはテンポです。今は時代がスピード化しているので、何でも早くと言うのは時代的傾向なのでしょうが、音楽がそれに付き合う必要ないと思います。若い人たちは往々にしてテンポが早いです。スピード感のある演奏の方が技巧的にインパクトがあるからなのかもしれません。ゆっくりは下手で速く弾けないと見られてしまいかねませんが実際は違います。演奏に携わると、ゆっくりしたテンポは必ずしも技術的に劣っているからでないことは明らかです。かえって充実したゆっくりのテンポは素人には難しいものです。そこにその人の音楽の力量を伺うことができます。早いテンポで弾くのは練習を重ねればいいだけと言うこともあります。
全体の印象を言うと、音楽から潤いが失われていると言うことです。音楽が人間性に満たされていないのです。音楽以前に音楽の素、要である音をしっかり聞いていないという、もの寂しさも感じます。これから音楽はますますスカスカになってゆき、空っぽになってしまうのでしょうか。おそらくそのことに気づいている人もたくさんいるのだと思います。しかし音楽が商業的になってゆくと、この傾向はますます増長してしまうでしょう。音楽活動が商品的価値を持たなければならないことは理解できますが、商品である以前に、もっと大きな役割が与えられているのではないか、そんな気がするのです。
この文章を書きながら、音楽というのは実に繊細なものなのだと言うこと改めて感じました。他の芸術にない独特の繊細さを持ったものの様です。
2024年10月22日
今日も言葉のことにこだわってみます。
文章は文法によって支えられていものですが、詩の言葉は違います。
日本の和歌は三十一文字で俳句は十七文字です。万葉などに見られる長歌は定型はないですが五七調で書かれているものです。詩の場合は、詩形と言われるものが散文の文法に相当するようです。イギリスにはソネットという十四行という形があり、ダンテの神曲は一行が十一シルベルで綴られていますから、歌うように言葉が流れます。
言葉を書く時、つまり書き言葉というものには詩文、散文を問わずとりあえず制約があるということです。言葉によって、また時代によって制約の仕方は異なりますが、書き言葉にする時には、自由に思いのままに喋るのとは違ってその制約の中で、つまり不自由の中で精神を活動するのです。私は言葉のレベルが違うと思っています。
フランスには美文を保護する意識が高く、フラン語的名文、理想の文章というようなものがはっきりと示されています。私たちが「最後の授業」として知っているアルフォンス・ドデーという作家の文章はフランで語の名文に数えられているものです。この物語は「月曜物語」という十八世紀のフランスとドイツの戦争の時のことを綴った小説の第一章にあたります。もちろん翻訳されてしまってはフランス語の文章の味わいは消えてしまいますが、フランス語はこう書くのだという意識があるということを知っていただきたくて書いています。同じことはイタリアでもあって、理想的なイタリア語の文章というものをイタリア人もやはり考えています。もちろん英語にもあるものです。
ノーベル文学賞を何年か前に取ったカズオ・イシグロが受賞の何年か前のインタヴューで「今の若いイギリスの作家たちは、英語で美しい文章を書くというよりも、他の言葉に翻訳しやすいような言葉を使う傾向が強い」と指摘して「それは言語としての英語の衰退である」という感想を述べています。彼の受賞作品である「日の名残り」の英語は英語のエッセンスで綴られた凝縮したもので、イギリス人にもある意味難解なものになっているほどと言われるレベルの高い英語です。外国人として読む時には悪戦苦闘を強いられます。
こういう傾向は何も英語だけに限らず、グローバルという世界が一つになったらいいという考えのもとでは、容易に起こりうることで、おそらく日本にもそういう手の作家がいるような気がします。
日本語は理想的な日本語というのがないと言ってもいいのかもしれません。特に翻訳がされるようになり新しい語彙が加わり、西洋語の文体に振り回されることになりと、日本語は今までとは別の言葉として新生する必要があったわけです。しかし地下水のように脈々とながれている日本語、大和言葉のエネルギーは消えていないと思っています。新生してすでに百五十年以上が経ちます。その間のうねりは、二葉亭四迷から始まって今日に至るまで、さまざまな工夫がなされて今に至っています。
日本語の文章を考える趨勢がこれから生まれ、新しい意識のもとで日本語が磨かれてゆくのだろうと楽観しています。日本語には西洋語に見られるような文法がないというのが、どのような利点として活用されるのか楽しみです。