今回も多くの方と声をテーマに出会える様です

2024年11月10日

昨日日本に入りました。今回は大阪の関空でした。シュトゥットガルトの自宅ら関空まで、のべで27時間の長旅は慣れても疲れるものです。疲れてはいますが元気です。

これから近畿地方、中部地方の知人友人を訪ね、実家の整理に際し預かっていただいた荷物を整理しながら北海道に飛び札幌で初仕事をして、その後関東地方に向かいます。随分東京での会がなかったので、東京という空気の中で多くの人と声とライアーを通して出会えることがとても楽しみです。

声のことは足掛け二十年やってきたのですが、声というのはあまりにも日常的なもののためか、残念ながら単発でオファーがあるだけで継続することがありませんでした。大きな理由は、私の声へのアプローチが、一般に考えられている発声というジャンルに属さないことにあると考えています。練習して、訓練して上手になるものではないのです。それは人生そのもので、何かの練習をして人生が良くなるものではないのに似ています。人生というのはどんなに頑張っても、所詮未完成で終わるものなのではないのでしょうか。

つまり私の声のアプローチは、声が良くなるということを目標にしていないものんのです。目標にしているのは、相手に伝わるということです。これでもまだ抽象的なのでもっと具体的に言うと、相手を威圧しない声ということで、相手が話し手の声を安心して止められる、そういう声を願っているのです。

私たちは相手に何かを伝えようとしている時、まず第一に内容的なことを考えてしまいますが、実はその時の内容はどんなに素晴らしいものですも、声と言う道具を用いている限り、声が相手に受け入れられることが前提となるはずなのです。私はそこのところに焦点を当てて相手に聞いてもらえる声と言うことを考えました。声が受け入れられればコミュニケーションの第一歩が始まります。しかし、声のところで挫折してしまえば、どんなに内容が素晴らしいものでもそれは相手から拒否されてしまうのです。

声と言うのは、あまりにも当たり前すぎるものなので、それをメンテナンスしてみようと言う事はあまり思いつかないようです。しかし、話の内容よりも、声に魅力があるかどうか、つまり声が受け入れられているかどうかの方が比率としては大きな役割を演じていると思います。

よく耳にする「話し方教室」のようなテクニックとしての話し方は、意外と簡単に思いつくところで、そのために努力する方が多いのですが、実はそうしたテクニックよりももっと深いところにある声の質、つまり声が相手に受け入れられているかどうかは、素通りしてしまうものですが、思っている以上に大きな役割を演じているものなのです。

このこと、今回の声のワークなどを通して皆様と確認できたら嬉しいと思っています。

 

無機質と有機質、文法のいらない言葉

2024年10月27日

以前に文法のことを書いた時に日本語の文法が西洋語のものとは違うことを指摘しておきました。日本語には文法などなく、言葉と言葉を繋げるための規則があるだけだと言いたくなることもあるほどの様なことを言ったと思います。

私たちが学校で習った文章の定義はピリオッドを打って完了でした。ピリオッドを打つまでは一つの内容について発言しているのです。ピリオッドに至るまでに使われるコンマやセミコロンハイフェンなどはその内容を補作するための手段ということなのです。このような文法の法則は基本的に西洋人の思考の写し絵に他なりません。さらに私がよく思うのは西洋語の文法は算数の数式だと言うことです。

 

では日本語の場合はどうなるのでしょう。日本語という言葉にとって文法、文章の規則、あるはそもそも文章と言うのはどの様なものとして捉えられているのでしょうか。

源氏物語には句読点はありません。と言うことは、通例の文法からすると「終わっていない」と言うことです。西洋的に見れば源氏物語は始まりも終わりもないものですから、西洋語の影響を受けた現代人には理解できないものです。「それで書き手の伝えたい内容が読者に伝わるのか」と不思議がるのではないかと思います。

しかし現実にはそれで十分に内容が伝わっているのです。そこには何か別の文章を成り立たせている力が存在していると言うことなのではなのでしょうか。言葉そのものに別の力が備わっていると言うことです。

私がイメージするのは、西洋語は単語が基礎になっていると言うことと、単語は無気質なものでそれを繋げ意味をつくるために必要になったのが文法だと言うことです。

ところが日本語の場合、単語以前のシルベル、つまり「あいうえお」と言われる五十音が大きな存在で、ほとんど西洋語の単語に相当する意味の暗示力を持っているとことを指摘したいと思います。そのことから西洋語の単語のような無機質なのではなく、つまりゴロゴロした石ではないので、文法のような手段を用いる必要がないのではないかと言うことです。またそこから俳句が可能になると言うことです。要約すると、日本語というのは、言葉そのものに西洋語とは比べられない力があると言うことです。文法など必要としていない言葉なのです。

もちろん日本語にも言葉を使う上での規則はありますがその発想は西洋語の文法とは誓ったものの様です。この違いがうまく説明できれば二つの文化の違いの基本的な違いが見えてくるの思っています。

 

 

 

 

やっつけ仕事

2024年10月23日

YouTubeで最近の若手の演奏家がどんな演奏をしているのかと覗いてみることがあります。もちろんいい演奏もあれば、面白くもなんともない演奏もあります。年寄りの寝言と聞いていただいてもいいのですが、予想以上に「この人とやっつけ仕事をしている」と感じる演奏が多いことです。あるは「これみよがしの演奏と言うのか自惚れ」も気になります。

私の持つそうした印象は、、音楽以前のこともあります。音楽をする人たちの一面的な人間教育はいつも問題になりますが、音楽的には楽譜で音楽を勉強したことの弊害と結びつくものだと考えています。やっつけ仕事という言い方は少し乱暴かもしれませんが、感情の伴っていない機械的な演奏、大袈裟なパフォーマンスというのも気になるところです。そうした演奏に共通した特徴は、聞いていて疲れることです。いろいろな疲れ方があるのですが、一様に疲れると言うことでは共通しています。

楽譜と言うのは実にありがたいものです。楽譜があることで作品が後世に残るわけですし、何百年も前の作品を今日演奏できるのも楽譜に残されたからで、楽譜のありがたさは百も承知しているのですが、楽譜を演奏すれば音楽になるという考えで音楽をすることになれば本間転倒です。楽譜はあくまでも便宜上のものと知っておく必要があります。文章の時には行間を読むという言い方がされますが、音楽にも似たことは起こっているはずです。音符と音符の間というのか、五線の間というのかは知りませんが、あのお玉杓子の間にあるものが音楽にとっては一番大切なところなのです。楽譜のように見えるものではなく、見えないところを読み取りそれを音にできるかどうかで良い演奏かよくない演奏かが別れてしまいます。

老婆心から加えて言うと、若い人たちは、技術的な練習をすることに専念して、他の人の音楽良い演奏形の良い演奏をちゃんと聞いてきていないのではないか、そんな印象があります。音楽の基本は聞くことから始まるので、聞くと言う練習をたっぷりしないと良い演奏につながらないと思います。

気になるもう一つはテンポです。今は時代がスピード化しているので、何でも早くと言うのは時代的傾向なのでしょうが、音楽がそれに付き合う必要ないと思います。若い人たちは往々にしてテンポが早いです。スピード感のある演奏の方が技巧的にインパクトがあるからなのかもしれません。ゆっくりは下手で速く弾けないと見られてしまいかねませんが実際は違います。演奏に携わると、ゆっくりしたテンポは必ずしも技術的に劣っているからでないことは明らかです。かえって充実したゆっくりのテンポは素人には難しいものです。そこにその人の音楽の力量を伺うことができます。早いテンポで弾くのは練習を重ねればいいだけと言うこともあります。

全体の印象を言うと、音楽から潤いが失われていると言うことです。音楽が人間性に満たされていないのです。音楽以前に音楽の素、要である音をしっかり聞いていないという、もの寂しさも感じます。これから音楽はますますスカスカになってゆき、空っぽになってしまうのでしょうか。おそらくそのことに気づいている人もたくさんいるのだと思います。しかし音楽が商業的になってゆくと、この傾向はますます増長してしまうでしょう。音楽活動が商品的価値を持たなければならないことは理解できますが、商品である以前に、もっと大きな役割が与えられているのではないか、そんな気がするのです。

この文章を書きながら、音楽というのは実に繊細なものなのだと言うこと改めて感じました。他の芸術にない独特の繊細さを持ったものの様です。