おむすびとおにぎり

2024年10月11日

日本食は色々と人気があって、ドイツでももちろん日本食のお店はどんどん増えています。そんな中でもちろん筆頭はお寿司です。そしてラーメンと続くのでしょうが、それ以外のいわゆるB級グルメと日本で言われている、ご当地の食べ物、庶民の楽しい食事も結構な人気です。

お好み焼き屋、焼きそば、たい焼き、たこ焼きといったものがだんだんと目立つようになる中で、おにぎり屋さんも、日本ほどではないですが最近は急速に増えつつあります。

我が家の孫たちも、もともとお米が好きですから一度おにぎりを食べてからハマってしまいました。そもそもサーモンが好きなので、鮭のおにぎりというのを食べてからはもうおにぎりに目がない状態です。日本のお米でないと美味しくないので、ドイツで作るとなると結構高くつく食べ物です。そういうことで私もよく注文をされ、おにぎりを作る回数が増えずいぶん上手になりました。

おにぎりを握るときのコツと言うのは、音楽で楽器を演奏する時とよく似ているなんて考えてしまいます。何が言いたいかと言うと、私の考え方では楽器にしろ歌にしろ、音楽を演奏すると言うのは演奏しすぎてはいけないと言うところにあると思います。演奏しすぎと言うのは別の言葉で言えば力んでいると言うことにつながるかもしれません。日本の有名なギターリストがフランスのギターコンクールで優勝した際に、当時審査員をしていたセゴビアと言うギターの巨匠から「弾きすぎないように」と言う忠告を受けた事はよく知られています。まさに過ぎたるは及ばざるが、如しのごとくです。おにぎりも力を入れすぎるとギュッと詰まって、硬くり美味しくないものです。

さておにぎりですが、おにぎりの別名は「おむすび」です。おむすびで有名な昔話は桃太郎の鬼退治です。桃太郎が鬼退治を出かける前におばあさんがお弁当を作ってくれました。そのお弁当はおにぎりではなく「おむすび」だったんです。何が違うのかって笑っている人もいるかとは思いますが、出来上がったものを見て写真を撮れば違いを見分けるとはむずなしく、同じものだと言われてしまうと思います。でもおにぎりと言うのはただ炊きたてのお米を塩をつけて中に具を入れて握るもので、握ると言うところに重きが置かれている命名でしょうが、おむすびと言うのは米と米と結びつけると言う働きを強調しているのだと思います。お米粒を結びつけると言う意味です。結ぶと言う言葉は日本語では深い意味を持っているもので、出雲の神様は縁結びの神様です。男女も晴れに結ばれ夫婦になりましたと言うことです。結ばれると言う深い意味を味わってみてください。

おにぎりは冷たいご飯ではできません。白米の、特に日本のお米の炊き立てのモチモチ感が絶対的条件で、炊いてから時間が過ぎてしまうと冷や飯になり、冷飯ではおむすびはできないのです。米が粘りを失ってくっつかないからです。おむすびと言わしめているのはお米とお米とが結びつくところだと思います。おにぎりは先ほど言いましたが、手で握ると言う動作を表しているのです。そして今おむすびのお米をくっけているのは、お米のもちもち感ですが、それ以上の手からの力があるのだと言います。

いろいろな研究がおにぎり、おむすびでなされていますが、ただ炊いたお米よりもおにぎり、おむすびの方が栄養価が高いと言う話を聞いたことがあります。これはある種のエネルギーが、人間の手を通して、おむすびやおにぎりに入り込んでいるのだと言うことなのです。その辺の正確さは、私にはわかりませんが、孫たちの様子を見ていると、ただ炊いたご飯を食べるよりおにぎりを食べる方が圧倒的に食べる量が多いようです。そしておいしいと必ず言います。

ある幼稚園の先生の話をします。日本の物語をこよなく愛されていた方むです。彼女はグリム童話は日本の子どもの体に入っていっていないと繰り返し私に言っていて、長年ずっと日本の昔話だけを子どもたちに読み聞かせしていました。その先生が桃太郎が鬼を征伐できたのは、おばあさんが作ってくれた「おむすび」を食べたからだと嬉しそうに買っていたのが印象的で、今でのその笑い顔を思い出します。

即興の醍醐味とは

2024年10月10日

即興ってどういう意味なのだろう。大抵は即興で作るというふうに使われるようです。

突然知り合いが遠くからわざわざ訪ねてきてくれたので、即興でお昼を作ったという具合にです。

ジャズなどでも即興演奏というのがあります。その場で思いついた額装を演奏することです。

 

友人に誘われて、彼が毎月一回参加している即興演奏グループの様子を見に行きました。

その会は固定のメンバーなどではなく、気ままな自由参加の集まりで、どんなメンバーになるのかはその日にならないとわからないという極めて流動的ものです。今回は20人ほどが集まって即興演奏を楽しんでいました。

参加者は現役のプロの音楽家はいなくて、会社勤めの人、学校の先生、主婦などでした。年齢は五十代から八十代てせ、とびきり若い人はいませんでした。

街中のプロテスタントの教会でやっています。即興演奏のためというお遊びが目的では枯れられないので、一応名目は「平和を祈るメディテーション」ということでやっています。

始まりは七時ですが十五分前からだんだんと人が集まってきて、七時の教会の鐘が鳴り終わると、みんな席に着き、黙祷のような沈黙があり、そのあとで即興が始まります。人数は多い時には30人を超えるというし、楽器もサクソフォン、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン、チェロというもので、一時間の間、好き勝手に音を出して過ごします。

単純に音を出すと言うのではないようで、その会場に着くまでイメージできずにいました。

始まると各々が音を出すのですが、即興ですからバラバラに始まります。しばらくの間はお互いに探り合っているのですが、しばらくするとはっきりしたメロディーとリズムが登場してきます。その時点ではすでに即興という雰囲気から抜け出てしったような感じでした。各々がバラバラに楽器で音を出しているという意味では即興なのでしょうが、ただ音を出し合って音の流れを一時間楽しむということのようで、即興は感じることがありませんでした。

流れの中で、その流れにふさわしいものを添えるというのはセンスの必要な行為です。そこが欠けていて、即興精神ではなく、自分を主張しているような印象を強く持ちました。結局人間は自己主張から退かれられない存在なのだろうかと感じてしまったのでした。

今回のようなあり方は即興というものからは離れて、流れの創作といった方がふさわしいような気がしました。人生というのも外を流れている状況、時間に今の自分がどのように関わるのかという創作なのではないかとふと思ったりもしました。

ジャズのアドリブ、即興演奏も今ではパターン化してしまっていると聞きます。即興というのはそれほど難しいものだということなのかもしれません。

即興というのは瞬間的な直感的な創作行為のような気がするのです。いつかお話しした、能楽にみられる即興性、つまりリハーサルなしで舞台に上がる能楽師は、何百、何千、何万回と上演されてきた古典的な作品すらも、毎回即興的に演じているという方が、即興の醍醐味を感じてしまうのです。

 

言葉の行くへ

2024年10月8日

言葉が常に変化する流動的なものだと言うことは百も承知していますが、年を重ねると若い人たちの使う言葉が気になるものです。そうした時世代をひしひしと感じてしまうのですが、今の若いものはなんて野暮なことは言わないまでも、不自然を感じるのです。そんな時、言葉は変化するのだと心の中で言い聞かせる訳です。

日本語を遡るときに、平安時代までは何とか読めることに驚きます。さすが万葉仮名まで時代を遡ってしまうと、手が出ませんが、平安時代までならず辞書を片手に文法の約束事を踏まえれば何とか読めるものです。万葉仮名は別格で、多分、平安人にとっても万葉仮名はすでに難しいものになっていのではないかと考えています。

日本語は、西洋の書物を翻訳することから、単語を新しく作ったので、言葉の姿が大和言葉からガッと変わってしまいました。ところが文法は流石にしぶとく、西洋的な発想で日本語の使い方を説明することは十分できず、変革の憂き目に遭うことはありませんでした。

古い文学を読んでいときに感じるのは、言葉は変化はするものの、進化するものなのだろうかと言うことです。ダーウィンの進化論が罷り通っていた時には、進化ははべての分野でもてはやされ誇らしいもので、その影響は言葉にも、社会制度にも見られ、どんどん進化するものだと思い込まされていた様な気がします。社会主義は資本主義の後に来る進化したものと考えられていたのです。

しかし私の個人的な感想だと、古典のものを読んでいるときに、言葉は進化すると言うよりもむしろ退化するものではないのかと言うことです。古い言葉の方が輪郭がはっきりしていて、迷いがなくキッパリとしているのです。説明のための単なる道具ではなく、表現が何かを伝えようとしているのでしょう。個人的には、昔の言葉の方が詩の言葉に近い様に感じます。今の言葉はすっかり説明文で、散文になってしまったのです。電気製品の説明が気のような文章は今までなかったものです。そして悲しいかな、詩までもが散文になっているのです。

簡単にまとめると、言葉から詩の要素が薄れてきていると言うことだと言えそうです。言葉の中に詩の要素が生きていると、その言葉には違う息吹が通っていて、言葉の中に人格を感じます。気骨もです。今は上手に説明することがとにかく大事で、言葉の息吹とか気骨とかということはあまり考慮されないようです。

言葉の未来はどん風に捉えられるのでしょう。

これからどんどん言葉は力をなくしてしまうのでしょうか。

それは人間の精神生活にとってよくないことなのでしょうか。

個人的には、長い目で見ると、悲観的にはなりません。なぜかというと、言葉はいつまでも言葉としてありつつけるものではないと思っているからです。むしろ今まで人間は心のことや、精神性をあまりに言葉に頼りすぎていたと言ってもいいのです。ところがこれからは、言葉では語れない精神性というものが、焦点を当てられる様になってきます。非言語化が際立ってくるのではないかと思うのです。

私はドイツで生活しているので、ドイツ人が何でも言葉にして説明することに少し辟易を感じています。逆を言うと言葉になってない部分は理解されていないのです。これは知性に傾きすぎた弊害で、日本人である私からすると非常に滑稽な現象で、もしこのまま何でも言葉にするとなると、人間生活、特に精神生活は硬直化してしまうような気がします。つまり語彙、ボキャブラリーが豊富になると優秀な言葉と評価されるのでしょうが、それは単に知的な言葉になったに過ぎないのです。すでに知性の産物としての言葉は広く普及しているのです。既に言葉は用を足すための道具となっています。知的精神生活は饒舌なものなのです。

言葉に感情とか、意思とか言うものが、比重を持ってくれば、言葉数はだんだん少なくなっていくのではないかと言う気がするのです。テレパシーのようなものは、過去の遺物なのか、それとも将来のコミュニケーションの方法になっていくのか、私はこの流れを見つめていきたいと思います。

アメリカの女性がオーストラリアのアポリジニの人の中に入って生活した時の様子を書いていますが、彼らがあまりにも会話をしないことが不思議で、彼らに「なぜ喋らないのか、声は何のためにあるのか」と聞くと、「テレパシーで相手のことはわかるので喋らなくてもいい」また声は「歌うためと祈るため」と言う答えが返ってきたそうです。

何となく示唆に富む貴重な話です。