動詞とは

2024年10月5日

動詞は動きを表す言葉です。名詞は名前を表すものです。この二つはまるで静と動のような組み合わせです。あるいは動詞が意志の表れだとすれは、名詞は知性の代弁者です。

名詞についてはほとんど説明する必要がないのですが、動詞は複雑で補足できるものがある様な気がします。その一つは日本語ではない区別を西洋語ではしていることです。自動詞と他動詞です。何が違うのでしょうか。日本語で生活している間はこの区別に振り回されることはありませんが日本から出てヨーロッパの言葉の中に入ると、厳密な違いを持っていることに驚かされます。

例えば、go と言う動詞は、行くとか出かけるという、よく使われるものから、順調とかうまくおさまっているなどのような込み入った使われ方もしますが、いつも自動詞です。

giveで見ると、これは与えるという他動詞です。誰かに何かを与えるのです。ほとんどが他動詞として使われているのですが、自動詞になることもあります。例えば、It is more blessed to give than receive.(受けるより与える方がはるかに幸せである)の様な時です。またSomething has to give.(不吉なことがおこるよ)も自動詞として使われています。This chair gives comfortably.(この椅子は座り心地が良い)などと言うこともあります。

こうしてみると、普段他動詞として使われている動詞が、自動詞となると少しひねくれた意味が生まれてくるのが見えます。giveのときには、与えると言う普通の意味からとんでもない方に飛躍します。自動詞と他動詞を兼ね備えた動詞の場合、自動詞として使われるときには要注意です。想像力を働かせなければ辿り着かないものなのです。

簡単に言うと、他動詞の方が自動詞よりもわかりやすいものです。それは他動詞の場合目的が外の見えるところにあるからです。自動詞にも実は目的があるのです。ところが内在しているために外からは見えないので、そこを勘ぐらなければならないのでわかりにくくなってしまいます。

座るとか座っているというsitの場合、ほとんどが自動詞として使われるのですが、他動詞として登場する時にはめんどくさい手続きが必要になります。Sit yourself down beside me.(私のそばに座りなさい)では目的語が必要なので、再帰代名詞yourselfを登場させることになります。

西洋語というのは自動詞と他動詞の間を行き来しているのです。

さて日本語はどうなっているのでしょうか。私は日本語は自動詞しかないと思っています。と言うのは動作の目的を示すためにはテヲニハ、つまり助詞をつけなければならないからです。英語で言うと自動詞のlookの時に「何を見ているのか」を示すにはatをつけなければならないのと同じです。lookが他動詞になると「らしく見える」と言う意味ですから、ただ見ているとは全く違うものとなってしまいます。look one’s age.(年相応に見える)と言う具合です。

ですから外国の人が、「私富士山見る」と言うのは、彼らが見るを他動詞として使うことに慣れているから生じてしまう言い方です。日本語では見るは自動詞的ですから「富士山を」と言わないといけないのです。

自動詞しかない日本語?というのはどう言う言語なのか言うことですが、推測でしか言えないとは思うのですが、目的が内在している言葉ということです。西洋語の場合は動作の目的が外にあるのでよく見えるのですが、日本語の場合は自動詞主体ですから、目的となるものが内在しているので、外目には見えにくいと言うことです。そのためにきっと「空気を読む」などという西洋では全く不必要な感覚が磨かれるようになるのかもしれません。自動詞しかない日本語によって鍛えられた感覚です。

英語だけでなくドイツ語にも当然二つの区別はあります。見るという意味で使われるschauenは自動詞で、sehenは他動詞です。Ich sehe die Weltは「私は世界を見る、見ている」と言う単純な行為ですが、Ich schaue in die Weltとなると、同じ見るですがただ見ていると言うだけではなく「私は世界の中に居て周囲を見渡している」という意味になります。日本語では想像つかない違いが自動詞と他動詞を使い分けることで表現できるのです。翻訳や通訳の時には神経質になる部分です。

モーツァルトのレクイエム

2024年10月2日

モーツァルトの音楽というのは透明な水晶のようなところがありますから、そのピュアなところに惹かれ若い頃は一時期夢中になって聞いたものでした。が、ある時を境にあまりの透明さ故に逆に飽きてしまったようなところもあり、いつしか遠のいてしまいました。そんなモーツァルト歴なのですが、最後の曲であるレクイエムは例外的に繰り返し聞いていた音楽でした。

この曲は、通説としては、涙の日ど題された途中までがモーツァルトの手になり、その後は他人がつぎたしたと言うことになっていますが、私にはそれはどこかで作られた話のような気がしてなりません。お金のために、モーツァルトの奥さんであるコンスタンツがそういう話にしたと言う説もあります。他人の手になると言われている後半部も、前半部に劣らないほどの緊張感と安らぎとスケールの大きさを含んでいるので、私にはモーツァルト以外の人が書いたとは思えないのです。

私は宗教曲というのがあまり好きではなくほとんど聞くことがないのですが、例外はヘンデルのメサイヤとモーツァルトのレクイエムです。なぜこの二つの曲にそれほど惹かれるのかと言うと、ヘンデルのメサイヤはヘンデルが脳溢血で倒れて、ドイツのアーヘンと言う温泉で湯治し、健康を回復した後に作曲されたもので、深い喜びに満ちているからだと思います。その時の喜びが直接ひしひしと伝わってくるのです。モーツァルトのレクイエムは少し違います。ある日、見知らぬ人が訪れて来て、彼にレクイエムを注文するのですが、もうこの時はモーツァルト自身、健康と言えるような状態ではありませんでした。まるで自分の最後を弔うような、そんな意気込みで作曲されているからだと思います。このレクイエムを聞いていると、モーツァルト自身がこの曲の中に生まれ変わっているような気がしてならないのです。レクイエムですから日本語では鎮魂歌となり、死者への安らぎの祈りの音楽なのですが、モーツァルト自身がこの音楽の中に死んでゆく自らの姿を蘇らせているような気がしてならないのです。という事は、ヘンデルも病気から回復し復活する魂の喜びをメサイヤに託しているので、この2つの曲には復活と言う共通点があるのかもしれません。

二つの音楽は全く別の方向性を持っています。一つは死に向かい、もう一つは死から蘇るのですから。しかしどちらも根っこのところで一つで、聞くものの魂を揺さぶる大きなエネルギーを感じます。ただ単に音楽が作られたと言うよりも、全身全霊を込めて、音楽の中に命が蘇っているような気がするのです。こういうリアルな魂の体験と言うのは、たくさんある西洋音楽の中でもあまり体験できるものではなく、特筆したものだと思います。

 

実は妻の妹が膵臓癌ということで、今、生と死の間をさまよっています。一時は余命宣告を受け別離を考えたのですが、今は少し落ち着いているようです。義理の妹と私とは10歳違うのですが、誕生日が同じと言う不思議な縁があり、そのせいかとても近いものを感じるのです。その彼女のことを思いながら、ここ二週間は毎日のようにモーツァルトのレクイエムを聴いていました。彼女の死を弔うと言うよりも、その音楽の中に聞かれる復活する生命を彼女に送りたかったのです。ここ何日かは高い熱に苦しんでいますが、意識は鮮明で、電話で話すことができます。是非、克服して帰ってきて欲しいと思っています。

文法の不思議

2024年10月1日

文法と言うのは難しそうに見えて、本当は単純なものではないかと思うことがあります。それなのに、文法と言うのは、何かとないがしろにされているようです。

どうして文法がないがしろされるようになつてしまうのかということですが、言葉は何かを説明するためという考えが基本にあり、ネット上の言葉の使われ方などを見ていると、学問的であれ、評論的であれ説明が大半というかほとんどです。みんな賢く振る舞っていて、どこに首を突っ込んでみても、お利口さんの集団です。大事なのは上手に説明するための整理された知識であり、そのための語彙です。みんなはそれらを巧みに駆使しています。典型的な知的なタイプです。ところが老子の言葉で言えば、「知る者は語らず、語るものは知らず」と言うことの様ですから、知識というのは満足に知らない人たちにとって都合のいい道具であり、武器だということのようです。

文法は少し特殊です。ただ特殊なだけでなく、実は大切なものだと言うことはぜひ知っていただきたいのです。実際に言葉を使っている時には表立っては見えないものですが、文法がなくなったら大変で、言葉はガラクタ同様になってしまい機能しなくなります。箍(たが)の外れた、桶であり、タライであり、樽ですからバラバラになってしまいます。単語だけがぶさまにゴロゴロと転がっているようなもので、例えて言えば外国語を単語だけ並べてどうにかしようともがきながら何かを訴えているようなものです。正真正銘のブロークンです。

会話などでは文法が少しくらい間違っても語彙さえ押さえておけば大方通じるものだて考えられていますから、文法などはどうでもいいと言われてしまうものですが、文法のない言葉は箍の外れた桶ですからバラバラで姿見が悪いです。文法は言葉に姿、形を与えます。語彙だけでは形ができないのです。ということは人間は知性だけではまだバラバラだということです。知的な人間というのは実はバラバラだと言うことなのです。人間を人間たらしめているのは意志です。文法は言葉の意志を司っているものなのです。樽は箍があって初めて樽になるのです。

 

日本語の場合は少し特殊かもしれません。文法の位置付けがヨーロッパの言葉とは随分違います。日本語にあってまず大切なのは語彙同士のつながりであり、次に単語を、語彙をどういうシチュエーションで使うかということです。これはまさに空気を読むという離業のことで、空気が大役を演じるので、成文化された規則としての文法ではないようです。文法という成文化された規則よりも、空気という見えない、成文化されていないものが文法の役わりを演じているのです。ですから文法の代わりに空気を読むことを会得すればいいのかもしれません。しかし空気となったとは言え、文法は文法なのです。ですから、文法の本質的なところはしっかり抑えておきたいと思います。

 

文法には言葉の意志が潜んでいます。ここがとても大事なところです。語順を変えるだけで、意味と言うよりもニュアンスが変わってしまいます。これは文法的テクニックですが、知らずのうちにずいぶん使っているものです。あるいは物事を婉曲に言おうとするときには、接続法と言う特殊な形を使います。これなどはほとんど日常的に使われているので、文法的に説明しようとする人はいないと思いますが、厳密に言えば文法処理だと言うことです。「お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか?」などと言う言い方は、表現としては上等な部類に入ると思います。こういう事は文法の基礎をしっかり抑えておけば、うまく使えるようになり、用を足すだけの日常会話ではなく、日本語で言うならば、丁寧語や謙譲語のようなものが文法によってうまく表現されるのです。

ヨーロッパの言葉を学ぶときに、特に日本人からすると、文法と言うものを手がかりにして学ぶとその言葉の全体像が見えてきます。会話をしているときに、ただ言葉を並べているだけではなく、そうした文法的な背景を知っておくと、いろいろなニュアンスを会話の中に取り込めることになります。

逆に、自分の言葉も外国も学ぶように、外から眺めてみると、意外な発見があるものです。同じ道が行きと帰りとでは全く違う風景を見せるようなものかもしれません。

また文法は言葉自体の骨組みをしっかりと支えているので、言葉を比べるときに文法を手がかりにするといろいろな発見があるものです。

文法の不思議に気づいてみると、言葉と言うものが生き物だと言うことに気がつきます。