2025年1月28日
ある時、鯨やイルカや海亀にフジツボがこびり着いてしまっているという話を聞いて、なんのことかよくわからなかったんですが、最近YouTubeでフジツボに悩んでいる鯨やイルカ、そして海亀の姿を見て、納得し、同時に驚きでした。船にフジツボが付着するというのは実際に見て知っていたのですが、まさか生き物で海の中を動き回っている生物にまでフジツボが付着するなんて考えもしなかったことでした。
大変なことが起こっていると思いました。原因らしいことには言及していなくて、また何年ぐらいかかったのかなどの報告もなく、フジツボが人間の援助で除去される様子が動画で見られるだけなのですが、その量が膨大なことに驚くと同時に、皮膚というのは呼吸しているものなので、フジツボがひっ着いてしまっては呼吸ができなくなるので、死活問題であり、最悪の場合死んでしまうのだろうと想像しまいました。
あのフジツボのくっ着いた鯨を見ていて、さらに考えたことがありました。
我々の時代は、私たちに情報があの鯨に引っ着いたフジツボのように纏わりついていているのではないのだろう。私たちはそのことに気がついていないだけで、相当深刻な呼吸困難に陥っているのではないのだろうかということです。海を泳ぐ彼らのように、私たちは情報の海の中を泳いでいるのですから、似たようなことが起こりうると考えたのです。これは大変なことです。情報過多については時々発言している人がいて、確かにそうだと思ってはいたのですが、まさかそれが現実に追っていて、しかも命取りになりかねないものだとまでは思っていませんでした。
YouTuberというのがここ十年くらいから増え始め、さまざまな情報が発信されいます。もちろん玉石混合で、見てよかったと思うのから、単なるプロパガンダに過ぎないものまで相当の幅があるようです。ズブの素人から、最高の専門家の話までが情報の海を泳いでいます。自分を知ってほしいという要求というのか、衝動というのか、それは誰にでもあるのでしょう。その衝動に身を任せ自らの知識や経験に自信のある人たちが発信するためには実に便利な手段だと思っていますが、時にはそれを凌駕した素晴らしいインタビューなどに出くわすことがあり、こんなものを家にいながら聞くことができることに感謝することも多いです。
情報提供者には誰でもなれるので、気をつけて見るようにしています。メディアがうまく使えば洗脳の手段となるように、YouTubeも隠れた魂胆がなくもないので、いつも問題意識を持って見ています。テレビ、ラジオ。新聞、雑誌という大手のメディアの手の届かないところに個人の発想で行き着くところなどは感心するところでもあります。
しかし、なんだかんだと言っても情報というのは面白いものです。人間というのは好奇心の塊のような存在だとつくづく思ってしまいます。ゴシップは苦手です。重く、コッテリした後を引くようなものも苦手です。軽快な口調でサラリとユーモアを交えて語ってくれるのが好みです。自己主張の少ない人の話が聞きやすいです。ただ知らなくてもいいものがとても多いし、知っても役に立たないものもあります。しかしそれがYouTubeの魅力だとも思っています。
でもフジツボ漬けにならないように気をつけているのですが、こればっかりは知らないうちになっていたりするかもしれません。時々はコンピューターから離れる生活が大事なことのような気がしています。
とは言っても情報というフジツボがくっ着いてしまった時、誰か取ってくれるのでしょうか。どこに行ったら取ってもらえるのでしょうか。
2025年1月28日
幼児期の聞く能力の成長の様子をみていると、興味深いことが見えてきます。
小さい時には音を絶対音感で聞いているということです。音程で聞いているのです。Hzです。成長するに従って音をただHzで捉えるのではなく、音色、声色、と言ったもので捉えるようになります。
絶対音感が特別な者だと考える向きもあるようですが、確かに絶対音感がない者からすると羨ましい鍵なのでしょうが、見方を変えるとそれは不自由であるということにもなるのです。
絶対音感は成長と共に消えてゆきます。とすると、今まで父親や母親を音程で捉えていたのに、それができなくなってしまうということになり、親を間違えるようなことになってしまうのでしょうか。そんなことはありません。聞く能力がただHzに頼るものから、それに伴う音色や、声の調子、さらに言葉遣いによって識別できるようになりますから、父親母親も声色、言葉遣いなどによって間違うことなくわかるのです。聞く能力が、多才、多彩になるのです。
絶対音感とよく似ているのが教条主義者の人たちです。宗教的、思想的に行動する人たちによく見かけます。グルの言っていることを絶対的に信じてしまう人たちです。それ以外は間違いですから、受け入れがたく、拒否してしまいます。幼児が絶対音感を頼りにHzだけで聞こえているものを識別していたようにです。幼児はだんだん絶対音感を失って行きますから、音をいろいろな角度から捉えられるようになります。素手言いましたが音色、声色などです。最後は言葉遣いで親がわかるようになります。音だけだった世界から言葉の世界に移ってゆくのです。
教条主義的でなくいろいろな考え方を受け入れられるようになることが、ある意味では成長ということにつながると思います。教条主義からすると、曖昧ないい加減なものに映るのでしょうが、ものごとは相対的なものというのが私たちの社会の現実です。教条主義や絶対音感の世界にいる限りコミュニケーションが取れない人間ということになってしまいかねません。
いい加減がいいのです。
2025年1月25日
先日はライアーの余韻のある音について、そして鐘や手で打ち出した銅製のトライアングルには音が消えてゆく様が体験できることに軽く触れてみました。音というのは消えてゆくものですが、音が消えてゆく過程を体験してみることで、最近は音が消えるという体験、実感がなくなっていることに気づきます。最近多くみられる機械音ですが、機械音は固められた音と表現していいと思います。倍音のない音という言い方をする人たちもいます。命の通っていない音ということもできると思います。余韻を持ってゆっくりと消えてゆく音が生きた音だということです。当たり前すぎて考える余地のないほどですが、これが実は音の持っている最大の特徴であると同時に本質なのです。そして音は時間の中を生きているということです。
ピアノという楽器は、音の記号化に最も貢献した楽器と言えるかもしれません。ピアノという仕組みは音を始めから消すことを目指しています。ペダルを踏まない限り音は消されてしまいます。ピアノは鳴った音を演奏者の都合で消すことができるという点から言えば便利な楽器なのです。楽器の女王と言われ音楽の世界に君臨していますが、あまりに便利を追求し合理化に走り過ぎてしまったため、音の本質を見失った様な気がします。シュタイナーが「ピアノという楽器は俗物である」といったのは深い意味があるのでしょうが、この辺りのことも含めて言ってるのかもしれません。
私たちはピアノが楽器の女王として君臨した時代の余韻の中にいると思います。もちろんこれからもピアノ曲は愛され続けるのでしょうが、もしかすると過去の絶対的な位置を維持し続けた姿は、これからは変わってゆくかもしれません。私が若い時には音楽への関心が古典時代からさらに遡っていったのと並行して、クラシックギターが台頭し、大きな反響があってピアノ以外の楽器への関心が広がりました。ピアノ離れの様なことをいう人もいました。ちなみに知り合いに聞いた話ですが、愛知県は当時五十社ほどがギター製作をしていたほど盛況だったそうですが、今は片手で数えられるほどしかないそうです。確かにクラシックギターは少しだけピアノ離れに貢献した様ですが、ピアノの地位を揺るがすほどの力はありませんでした。
ではピアノはこれからも安泰かというとそんなことはなく、ドイツのピアノ生産は崩壊寸前ではないかという声も聞かれます。家庭には一台ピアノがあったというドイツの姿は変わりつつあります。とはいえヘッドホーンで聴ける電気ピアノの普及に支えられ、ピアノの位置は未だ健在のようです。とにかくこれほど便利で合理的な楽器は他にないのですから。
今のところピアノを凌ぐ勢いのある楽器は見つかっていませんがピアノがいつまでも女王に君臨できるかというと、それは疑問です。
最近は音楽の世界と治療の世界がお互いに歩み寄っています。音楽治療というものが広く認められる様になっています。そうした中で旧約聖書にあるダビデの竪琴の話がよく引き合いに出されます。竪琴の弦の音で悪魔祓いをしたと言うのです。そこに焦点を合わせ、音楽は治癒する力を持っていると考えるのです。音楽よりもむしろ音に注目しているのだと思います。つまり音は治癒的に働くこともあるという言い方の方が現実にそぐっていると思います。ですから具体的にいうと「音治療」かもしれません。さらにダビデが奏でた音で悪魔が出ていったことを強調したいと思います。ということは実はダビデに治癒力があったのだということで、彼が弾く弦の音で悪魔が飛び足していったのです。
音に治癒力があるという風に考えると、非常に表面的な感じがしてきます。音を出せば治療になるというわけではないからです。音楽は演奏する人によって全然別のものになることはよく知られています。と同じように音はそれを用いる人によっては治療する力になることもあるということです。もし音に治癒力があるというのなら、誰が弾いてもいいわけですし、音でなくても薬を投与するのと同じになってしまいます。
ライアーは、ライアーのために作られた、いわゆるライアー音楽を積極的に弾く必要はないと考えています。もちろん弾いてもいいのてすが昔から親しまれていた音楽をライアーの持ち味を活かして演奏することで、ライアーの音が十分効果を発揮します。よく知っている曲がライアーで奏でられることで、聞き手の心は共鳴し緩んでゆく様な気がします。この緩んだ状態を作れるのがゆっくりと消えてゆく音ではないのでしょうか。長い余韻のある音を聞いていると時間の中に溶けていってしまう様な感じがします。この溶ける感じを作ることがセラピーにつながるのではないかと思っています。
ライアーをただ弾けばいいというのではないことも言っておく必要があります。ライアーを余韻のない音で弾いている場面に遭遇することがあります。これではライアーがかわいそうだと思ってしまうのです。爪で引っ掻いて弾いているのもみたことがあります。キンキンした耳障りな音ですから心に響くものではありません。言葉にしていうのは誤解も招くので、できるだけ控えたいのですが、弦が歌うように弾けばいいのではないかと思っています。やはり音楽は歌うという原点に戻ってしまう様です。そして歌を支えるのが声ですから、ライアーの音が声の様になればいいということの様です。