ルッチフェルとアーリマン

2025年3月13日

シュタイナーはこの二つの存在の働きを、いろいろな状況で説明しています。

実はその複雑さゆえ、この二つをはっきりと分類することが難しいので、本当は避けて通りたいところなのですが、ブログで嘘のことに触れた時に、念頭にこの二つの存在があったので、このことに精通していらっしゃる方からのお叱りを覚悟で、少し書いてみます。

小説などの文学を光の中の嘘と言いましたが、これはルッチフェルの世界のことです。芸術というのはある意味ルッチフェルのよって導かれているものだからです。ルッチフェルがいなければ芸術は人類にもたらされなかったのです。ルッチフェルを思い切って悪魔と呼べば、芸術というものはそもそもは悪魔的であるといえるものなのです。芸術家たちのプライド、驕り、自惚などはルッチフェルからのものだと思います。ただ芸術全体を悪魔の仕業だというような言い方は勇み足で無理のある言い方です。

ルッチフェルは堕天使と呼ばれています。あるとき天使の位階から堕ちたのですが、そもそもは光の天使とも言われていたのでした。何故堕ちたのかの説明は私たちの理解を超えているものです。余談ですが、オランダではマッチのことをルッチフェルと言います。蝋燭に火を灯すとき、ルッチフェルを取ってくれ、と普通に言いいます。初めて聞いた時にはびっくりしました。マッチ棒のリンがマッチ箱の脇の細かいヤスリ状のものと擦れると火がつきます。一瞬明るくなります。これがルッチフェルなのでしょう。この炎は元は光の天使であった姿を思い出させます。ところが、この炎は長くは続きません。マッチ棒はポプラの木でできているのですぐに燃え尽きてしまいます。本来の天使であれば光り続けているのでしょう。シュタイナーはこの悪魔的な存在を、悪者として見ることはなく、この存在は人間を助けている存在だというのです。

同様にアーリマンも悪魔と呼ばれ、そのようにみられていますが、実は人間を助けている存在なのです。アーリマンは機械文明の背後にあり、ミヒャエル・エンデがモモの中で描写した灰色の男の背後にあって、操っているのかも知れません。そして権力というものになりすまして暴れまくっているのかも知れませんが、だからといって絶対悪のような存在ではなく、悪者の姿をして実は人間を助けている存在なのです。

ルッチフェルとアーリマンの二つの力によって人間は、よく言えば導かれていて、悪く言うと誘惑されているのです。そしてシュタイナーの指摘するところによると、一方の力が大きく人間に働きかけているときは、相手方の力もバランスを取るように働きかけているということです。これは大事な観点だと思います。

ここまでくらいだとルッチフェルとアーリマンは別のものして捉えられるのですが、ここから先にシュタイナーが詳細に言うところを追ってゆくと、両者をはっきりと分けることが難しくなってしまいます。知識でしか語れないものたちが、生半可な理解で発言すると、説得力がないだけでなく、また誤解どころか間違ったことを述べることになってしまいます。私にはこの危険を犯す勇気はありません。

現代の世界情勢を見渡すと、確かにアーリマン的な権力闘争や、経済的な駆け引きが目につきますが、先ほども言ったように、その反対からルッチフェルの力も働きかけているのです。政治家たちの自惚、驕りはルッチフェルからの働きかけと言えるのではないのでしょか。政治の世界は権力闘争と、自惚の錯綜した迷路のような世界です。

ただそうした混乱と矛盾が、深い意味で私たちを助けているのだとシュタイナーは考えていたのだと思います。ルッチフェルとアーリマンは私たちを強くしてくれているのかも知れません。

そしてその真ん中に真実が存在しているというのです。

嘘と真実

2025年3月13日

嘘のことをテーマに話をするといろいろなことが出てきて飽きないものです。先日も夜遅くまで話し込んでしまいました。

そこで気がついたのは、真実と嘘は対立するものではないということでした。真実というのは特殊なものだということです。特殊というのは原初的と言うことです。

老子の道徳経の中の「一」のようなものです。一は一番大きな数字となります。

分数にするとわかりやすいものです。一は1分のI、二は2分の1のことで三は3分の1という具合です。一億は数字は大きいですが、1億分の1です。

真実は1分の1ですから、分けようがない孤高なものです。老子の言葉を借りると「真実は真水の如し」「無味の味」のようなものです。

嘘は二つに分かれて2分の1と2分の1です。真実が二つに分かれたのです。

先ほどの話の中で、小説は嘘だろうか、それとも真実だろうか、ということになって、私は小説は「嘘から出た誠」「嘘も方便」で、嘘素出鱈目の嘘は、いつまで経っても嘘のままの嘘と言っておきました。

嘘には明暗のうちの明である小説的な嘘と、明暗のうちの暗である嘘でしかない嘘があるということです。

ということで、嘘は「嘘と真実」と西洋的二元論で対比させるのではなく、二つの嘘を明暗と並べるとよく見えてくるものだと私は考えています。

 

小説の嘘は光と闇のから生まれる光の中の色があって、その色は混ざることによって無数の可能性を秘めています。実に心地の良い嘘です。いつまでもその嘘の中に、嘘の人物たちと一緒にいたいと思わせるものです。

騙す嘘は闇の中ですから薄暗くじめじめてしていて、居心地が悪いところです。

 

ということで、いい嘘はこれからも沢山ついていこうと決めたところです。

 

 

感覚と判断

2025年3月9日

感覚は間違わない、しかし判断のところで間違いが生じる、とゲーテは考えていました。そのことを納得した時、彼の目には何が見えていて、そこから判断に至るまでの過程をどういうものと見えていたのかと興味が湧いてきました。

それまでは感覚と判断とは一つのものと見做していたことに愕然としたのです。最近の脳の研究によると、判断というのはほとんど先入観のようなものだと言われているようで、ゲーテの先見の明には驚かされます。

私たちは何を見ているのかではなく、何を信じ込まされているのかという存在のようです。つまり先入観の塊だということです。

人の話を聞いている時にも話半分でもう結論を導き出しているということにも通じるものです。結局人の話を聞いていても、自分が聞きたいところだけを聞いているということです。自分の都合というものが世の中には満ち満ちているのでしょう。

先入観をぶち壊すことから始めなければ何も始まらないということのようです。

先入観がどのように作られてゆくのかは研究の価値のある仕事だと思いますが、相当の部分が無意識の中で形成されているはずなので、研究と言っても想像するしかないもので終わる可能性が大きいでしょう。それよりも、どうやったらぶち壊せるのかに努力する方が実りが大きいと考えます。

制度となってしまったものもよく似ています。新しいものに取り組むとき、そこに大手を広げて行く手を塞いでいるのは「前例がない」という目上の人たちの薹(とう)のたった基本姿勢です。あるいは「旧態を維持するための執拗な執着」は徒党を組んで進んでいるので、少人数の小さな力がそれに立ち向かうことは必死の覚悟が必要になります。政治の中で働く利権の渦は途轍もない力でスカラ、大潮の時の鳴門の渦潮くらいはあると思われるほどの規模です。

一朝一夕には壊せないものですが、制度には必ず内部から崩壊するという盲点があるので、そこに委ねるのも一つのあり方ですが、もう一つは教育を変えることです。教育が現行の制度のための人材を育てることに力を注ぐのではなく、その制度を壊す勇気を育てるようになれば、社会の舵取りはゆっくりですが変化が生まれるものです。社会全体にその機運が生まれることが望ましいのです。

個人の問題としては、先入観は時間をかけて作られてきたものですし、その形成プロセスは無意識の中にあるので、そこに手を入れても混乱をもたらすだけで、解決にはならないので、形成に費やされた時間と同じくらいの時間をかけて崩してゆくことしか方法としてはないようです。

自分という意識も潜在的に作られてゆくので、自分を変えようとしている人は、その潜在的な自分に立ち向かうことが難しいので、自分一人の力では成就しないものだと思います。自分形成が外からの働きかけでなされたので、新しい自分形成もやはり外からの力が必要だといえると思います。

今まで関わってこなかった知らないことに自分を向かわせることが良策です。価値観を変えることが肝心なので、詰まらないことだと思ってたようなものも効果的です。

価値観が変わると、感じ方まで変わってきます。感覚を通して感じていることに素直になれるということかもしれません。そうなると判断は必要なくなってしまうような気がします。他人をコメントすることも無意味に見えてくるかもしれません。