ライアーの弦は響きっぱなし。それは内面を活性化すると思います。
ライアーの音の特徴は弾いた後に残響というのか余韻というのか弾いた後の音が長く残ることです。同じように鐘やトライアングルも叩いた後に長く音が鳴り続けます。ピアノは打弦楽器ですから、原理的にはライアーと同じで弾いた音は消されるまでなり続けます。ところが、鍵盤を叩いて作った音が、鍵盤を押している時だけ鳴っているように改良され、今では鍵盤から指を離せば音は消えるようになっています。そもそものピアノに戻したい時にはペダルを押せば弾いた音は鳴り続けます。同時に共鳴している音もです。
ピアノの、鍵盤を叩いた音がすぐ消えるようになったのには理由があると思います。そしてその流れの中でいつしかピアノが楽器の女王と言われるようになったのです。
簡単にいうと音が長くなり続けているというのが演奏する上で邪魔になったのです。鳴り続ける音を好むというのは古い好みだという風に変化し、近代化の中で音が長く残るのは嫌われていったようなのです。ヴァイオリンの演奏方法にしても古くは弦を瞬発的に擦り弦を響きせたのだそうです。そもそもヴァイオリンは十世紀頃にライアーを改良し弓で擦るようになった楽器です。その当時のヴァイオリンにはライアーの様に枠がありました。しかし演奏に邪魔になったのでしょうか、真ん中にあった指板だけを残し枠は外されて今の形になります。奏法にも撥弦楽器の名残があったのでしょう。全音のような長い音も今ではずっと弓で弾き続けますが、当時は初めだけ弓で擦りその後はその音を、例えば全音符の長さの時間ずっと余韻を聞いてのだそうです。弓の動きは今のように流れるようなものではなく、ずっとインパクトの強い衝動的なものだった様で、今でも古楽を演奏する演奏団体の演奏にその名残をとどめています。
そうした残音を持つ楽器が衰退していった理由は、音楽の好みの変化にあったからだ思われます。早いテンポの音楽に対応できなくなったと考えてはどうでしょう。残音は、例えていうと、時代劇で城中の廊下を裾の長い袴でゆったりと歩いているようなものですから、長い裾を引きづりながら絡みつかないように上手に処理して歩かないと転んでしまいます。長い裾の袴を引きづりながら廊下を交差するとなると危ないことが起こりかねません。忠臣蔵の発端となった、二人のお殿様の殿中の廊下での触れあいのようなものです。
近代音楽は残音をどうも持て余したようで、それを排除するようになります。ヴァイオリンも改良され、近代奏法にマッチした音を作れるような楽器になり、ピアノも消音機能を持った楽器になります。これでスッキリしたスマートな音楽が演奏できるようになったわけです。
音楽の流行に伴いそれにふさわしい楽器が作られていったのです。モーツァルトにしろベートーヴェンにしろ新しいピアノが作られたと聞くと一目散にそれを試し弾きしては作曲に取り込んだということです。
音楽に刺激され新しい楽器が作られ、新しい楽器が作られるとそれに刺激された音楽が作られたのです。鶏が先か卵が先のような話です。
ライアーは、名前こそギリシャの名前を踏襲していますが、今からほぼ百年前に作られた新しい楽器です。近代を経て現代という時代にこの残音を残したままの楽器が、正真正銘の楽器として登場します。時代遅れも甚だしいと言わざるを得ないのですが、それをあえて行ったのです。
初めはごく限られた人の間で使われました。楽器の響きからすると現代の音楽の好みから見ても少しのんびりし過ぎていますし勿体ぶったところがあります。早いテンポの演奏をすることも得意ではありません。音量も限られているとすると一般の音楽社会からは容易に受け入れられない条件が整い過ぎています。
この楽器は通常の音楽を演奏するということを第一の目的にしないで生まれたということになります。この楽器を生み出した衝動は、新しい音楽を演奏したいという音楽的衝動ではなく、楽器というイメージが先にあったと見ていいと思います。まず楽器のことを考えたのです。楽器の響きをです。楽器の成り立ちとしては珍しいもので、とても知的な産物という風に見ていいと思うのです。演奏する音楽がないまま楽器だけがまず作られたというわけです。
楽器ができて百年。その間楽器の跡を追うように演奏のための音楽を工夫しながら、ライアーを愛する人たちによって作曲されてきたように思います。音楽と楽器の歴史の中で、今までに類を見ないものだけに、そのにはさまざまな解釈が飛び交うことになります。理論に走り、音楽といえども知的な面が強調されてくるのは必然的でした。
私にはライアーの成り立ちは現代音楽というジャンルの流れにシンクロしているように思えてならないのです。現代の音楽環境の中で、楽器も音楽も行き着くところまで来てしまった感があります。実際にコンサートなどでは主に歴史的な巨匠の作品が演奏されるようです。
新しい楽器が生まれていないわけではありません。シンセサイザーもその一つです。電気で人工的に音を作れるもので、自由奔放に音を操作できるわけで、今までのように楽器に制約された音楽を作るのとは発想が違ってきます。興味深いものが生まれていますが、それが未来に音楽を繋ぐ力を持っているのかというと、疑問符がたくさん残ります。
ライアーはどうかというと一般の音楽の世界にメイジャーな楽器として進出することはないと思います。あくまでもマイナーな存在であり続けるでしょう。ただ長く残る響きの特性はこれから評価が高くなるかもしれません。音を聞く姿勢が変わってゆく可能性があります。音を聞く力が増すと消えてゆく音の中に広がりを感じられるようなります。内面化される音と言えるかもしれません。
以前に銅製の手で叩き出した残響の非常に長いトライアングルを講演会の後に打ち、その音が消えるまで鳴らしたことかあります。その時の反応は非常に興味深く、五・六十人の聴衆がまるで一点に集中してしまったかのように静まり返ったのです。その不思議な時間の間に体験したことは人によって違っていましたが、長く忘れていたことを思い出したという人が随分いました。よく似たことはライアーを講演会の後で弾くことからも起こります。講演会で話は頭で聞いていたのでしょう。知的に仕事をしていたのです。ライアーの音とともに体に深く沈潜してゆく様子が、ライアーを弾きながらでも手に取るようにわかるのです。その瞬間に会場はとても暑い空気に変わっていたのです。
ライアーの未来は、私たちの聞くことの変化と共にある様に思うのです。