ライアーの弦は響きっぱなし。それは内面を活性化すると思います。

2025年1月24日

ライアーの音の特徴は弾いた後に残響というのか余韻というのか弾いた後の音が長く残ることです。同じように鐘やトライアングルも叩いた後に長く音が鳴り続けます。ピアノは打弦楽器ですから、原理的にはライアーと同じで弾いた音は消されるまでなり続けます。ところが、鍵盤を叩いて作った音が、鍵盤を押している時だけ鳴っているように改良され、今では鍵盤から指を離せば音は消えるようになっています。そもそものピアノに戻したい時にはペダルを押せば弾いた音は鳴り続けます。同時に共鳴している音もです。

ピアノの、鍵盤を叩いた音がすぐ消えるようになったのには理由があると思います。そしてその流れの中でいつしかピアノが楽器の女王と言われるようになったのです。

簡単にいうと音が長くなり続けているというのが演奏する上で邪魔になったのです。鳴り続ける音を好むというのは古い好みだという風に変化し、近代化の中で音が長く残るのは嫌われていったようなのです。ヴァイオリンの演奏方法にしても古くは弦を瞬発的に擦り弦を響きせたのだそうです。そもそもヴァイオリンは十世紀頃にライアーを改良し弓で擦るようになった楽器です。その当時のヴァイオリンにはライアーの様に枠がありました。しかし演奏に邪魔になったのでしょうか、真ん中にあった指板だけを残し枠は外されて今の形になります。奏法にも撥弦楽器の名残があったのでしょう。全音のような長い音も今ではずっと弓で弾き続けますが、当時は初めだけ弓で擦りその後はその音を、例えば全音符の長さの時間ずっと余韻を聞いてのだそうです。弓の動きは今のように流れるようなものではなく、ずっとインパクトの強い衝動的なものだった様で、今でも古楽を演奏する演奏団体の演奏にその名残をとどめています。

そうした残音を持つ楽器が衰退していった理由は、音楽の好みの変化にあったからだ思われます。早いテンポの音楽に対応できなくなったと考えてはどうでしょう。残音は、例えていうと、時代劇で城中の廊下を裾の長い袴でゆったりと歩いているようなものですから、長い裾を引きづりながら絡みつかないように上手に処理して歩かないと転んでしまいます。長い裾の袴を引きづりながら廊下を交差するとなると危ないことが起こりかねません。忠臣蔵の発端となった、二人のお殿様の殿中の廊下での触れあいのようなものです。

近代音楽は残音をどうも持て余したようで、それを排除するようになります。ヴァイオリンも改良され、近代奏法にマッチした音を作れるような楽器になり、ピアノも消音機能を持った楽器になります。これでスッキリしたスマートな音楽が演奏できるようになったわけです。

音楽の流行に伴いそれにふさわしい楽器が作られていったのです。モーツァルトにしろベートーヴェンにしろ新しいピアノが作られたと聞くと一目散にそれを試し弾きしては作曲に取り込んだということです。

音楽に刺激され新しい楽器が作られ、新しい楽器が作られるとそれに刺激された音楽が作られたのです。鶏が先か卵が先のような話です。

ライアーは、名前こそギリシャの名前を踏襲していますが、今からほぼ百年前に作られた新しい楽器です。近代を経て現代という時代にこの残音を残したままの楽器が、正真正銘の楽器として登場します。時代遅れも甚だしいと言わざるを得ないのですが、それをあえて行ったのです。

初めはごく限られた人の間で使われました。楽器の響きからすると現代の音楽の好みから見ても少しのんびりし過ぎていますし勿体ぶったところがあります。早いテンポの演奏をすることも得意ではありません。音量も限られているとすると一般の音楽社会からは容易に受け入れられない条件が整い過ぎています。

この楽器は通常の音楽を演奏するということを第一の目的にしないで生まれたということになります。この楽器を生み出した衝動は、新しい音楽を演奏したいという音楽的衝動ではなく、楽器というイメージが先にあったと見ていいと思います。まず楽器のことを考えたのです。楽器の響きをです。楽器の成り立ちとしては珍しいもので、とても知的な産物という風に見ていいと思うのです。演奏する音楽がないまま楽器だけがまず作られたというわけです。

楽器ができて百年。その間楽器の跡を追うように演奏のための音楽を工夫しながら、ライアーを愛する人たちによって作曲されてきたように思います。音楽と楽器の歴史の中で、今までに類を見ないものだけに、そのにはさまざまな解釈が飛び交うことになります。理論に走り、音楽といえども知的な面が強調されてくるのは必然的でした。

私にはライアーの成り立ちは現代音楽というジャンルの流れにシンクロしているように思えてならないのです。現代の音楽環境の中で、楽器も音楽も行き着くところまで来てしまった感があります。実際にコンサートなどでは主に歴史的な巨匠の作品が演奏されるようです。

新しい楽器が生まれていないわけではありません。シンセサイザーもその一つです。電気で人工的に音を作れるもので、自由奔放に音を操作できるわけで、今までのように楽器に制約された音楽を作るのとは発想が違ってきます。興味深いものが生まれていますが、それが未来に音楽を繋ぐ力を持っているのかというと、疑問符がたくさん残ります。

ライアーはどうかというと一般の音楽の世界にメイジャーな楽器として進出することはないと思います。あくまでもマイナーな存在であり続けるでしょう。ただ長く残る響きの特性はこれから評価が高くなるかもしれません。音を聞く姿勢が変わってゆく可能性があります。音を聞く力が増すと消えてゆく音の中に広がりを感じられるようなります。内面化される音と言えるかもしれません。

以前に銅製の手で叩き出した残響の非常に長いトライアングルを講演会の後に打ち、その音が消えるまで鳴らしたことかあります。その時の反応は非常に興味深く、五・六十人の聴衆がまるで一点に集中してしまったかのように静まり返ったのです。その不思議な時間の間に体験したことは人によって違っていましたが、長く忘れていたことを思い出したという人が随分いました。よく似たことはライアーを講演会の後で弾くことからも起こります。講演会で話は頭で聞いていたのでしょう。知的に仕事をしていたのです。ライアーの音とともに体に深く沈潜してゆく様子が、ライアーを弾きながらでも手に取るようにわかるのです。その瞬間に会場はとても暑い空気に変わっていたのです。

ライアーの未来は、私たちの聞くことの変化と共にある様に思うのです。

 

 

クラシック音楽のこれから

2025年1月23日

クラシック音楽の未来について考えてみます。しかしこの音楽の王道は、百年どころか、二百年、三百年、いやそれ以上前に作られた音楽を演目としてコンサートでは演奏しています。マーラー、ブルックナー、ブラームス、シューマン、ショパン、シューベルト、ベートーヴエン、モーツァルト、ハイドン、バッハ、ヘンデル等々。これは常識なのでそこに疑問を持つ人はほとんどいないと言うのが現実ですが、考えてみると不思議でもあります。

今生きている音楽家たちの作品はほとんど言っていいほど演奏されることはないのです。これでいいのかと声を上げても、集客力の問題が浮上してしまいます。現代音楽に集まる人は非常に少ないのです。ごく僅かの人たちが興味を持っているに過ぎないのです。それでは音楽会を主催することができないのが現実です。

なぜそうなっているのでしょうか。なぜ音楽ファンは古い音楽ばかり聞くのでしょうか。理由はただ古いと言うだけでなく、音楽にそれなりの存在感があるからです。

いまクラシック音楽は演奏家の時代だと言っていい様です。一つの作品を何人もの人が演奏しますし録音もしています。一人のピアニストがベートーヴェンのピアノソナタ全曲を五回も録音したりもしています。何がそうさせるのでしょうか。一つには商業的に成立しているからです。大作曲家の作品が繰り返し演目に登るのは商業的に採算が取れることも大きな要因です。もう一つは今日の音楽的の創造エネルギーは演奏の方に傾いているからなのです。それらの演奏をコメントして楽しんでいるのです。

 

クラシック音楽が歩んでいるこうした足取りから未来の音楽生まれて来るものなのでしょうか。百年後もバッハに心酔しているのでしょうか。他の分野を見ると却ってそちらの音楽の方が、日々新しい作品を上梓しているので、時代と呼応していると言えそうです。したがって健全だと言えなくもない様です。少なくとも時代の空気を吸っています。政治的に反戦の内容を歌にしたりしている訳です。時代として共感できるものがあります。しかしそれは音楽としてではなく、歌詞が政治問題を反映していたりしているからだとも言えます。

クラシック音楽が王道である所以は、音楽の中に世界観が生きているからです。音楽だけで何かを語っているのです。語れるのです。これは特筆すべきことです。音楽は当時すでにそこまで来ていたのです。ここに多くの音楽ファンは共鳴しているのです。古くでも新しいとも言えるのです。

私は若い頃音楽というのは音楽の箱の様なものがあって、そこから無尽蔵に音楽が湧いているのだと思っていました。しかし今日かつて作曲されたものばかりが演奏されているのをみると、音楽箱から湧いてくる音楽は枯れてしまっているのではないかと思ってしまうのです。確かに古くても新しい面はあるにしても、もしそうだとしたら大変なことです。もう新しい音楽は生まれないのです。そしてこれからの音楽はどうなってましうのでしょう。

 

 

個人主義とは一人一人がみんな天才になることです

2025年1月22日

個人主義と全体主義のちがいはどこを見ればいいのだろう。

このテーマは珍しいものではなく、かえって言い古されているものでもあります。今更何が言いたいのかと言われてしまうかもしれません。

ただ個人主機についてどのように分かっているのかと問い直すと、意外とわかっていないものかもしれないと思うのです。というのは、個人主義と言っている割に現代人は辛い孤独感に苛まされている面もあるので、ある意味では個人主機というものが負担になっているとみてもいいのかもしれません。個人主義は口で言うほど簡単ではないということかもしれません。

個性的に生きるとか、自己主張をしっかりできるようにというレベルで個人主義を語るのであれば、個人主義はわかったつもりになり易いものですが、人間が個人として自立しているということをどのように捉えるかで、話はずいぶん変わってしまいます。

個人主義に孤独はつきものですが、孤独に負のイメージを持つようでは個人主義に近づくことはできないと思っています。個人主義に伴う孤独、孤独感とは、他者から阻害されていることではなく、ただ自分は他人とは違うということを認識することだからです。

個人主義の反対は全体主義ですが、全体主義というのは皆んなおんなじというもので、周囲に個人が溶けてしまっている状態です。個人が全体から見て一つの歯車のようになっているのです。個人が全体に呑み込まれてしまっているわけですから、危険な状態だと言えます。個人が犠牲になってしまうからです。人類が全体主義から抜け出して個人主機に到達したと考えていいのか、まだまだだというべきなのかは、人によって、立場によって、考え方によって違いがあるとは思うのですが、孤独が負のイメージの中に置かれるところでは、個人主義はまだ成熟の域に達していないと見ていいと思います。

友人の一人に、シュタイナーがいう意識魂について文章にしたり、それをまとめて本にしたり、セミナーなどをしている哲学博士がいます。会うといつもこのテーマで意見を交換するのですが、私と彼の間では、意識魂の特徴は「一人ひとりが、その人にふさわしい天才を持っている」ということになっています。皆んな天才なのです。もちろんそれぞれに見合った形でです。古い意識状態では徒党を組むような傾向があり、全体をまとめる代表者を奉るものなのです。古い意識では、天才はみんなが天才なのではなく、誰か特別な能力を持った人が天才なのです。

個人主義の時代にあって、個人と個人をつなげているものは相手を敬うという姿勢です。自分も天才だけど相手も同じように天才なのだということを認めることなのです。そしてお互いに尊敬の念を抱くのです。相手を理解するとか、最悪の場合相手をコメントしたりすることからは、意識魂の個人主義の時代にあっては、社会が成立しないのです。全体主義は社会を強力な箍(たが)でくくりつけて縛っておけば維持できて、それでよかったのです。意識魂の個人主義にそのような箍はないのです。その代わりにお互いに敬わなければならないのです。

感謝というものも大きな力です。そして一人ひとりが哲学者のように考えることが求められます。感謝と考えることが意識魂の時代には必須なのです。

ちなみに感謝と考えるという言葉はドイツ語では、DankenとDenkenという具合にとても近い言葉なのです。きっと語源的に見ると同じ根っこにたどり着く言葉かもしれません。

ということは、現代は意識魂の時代だということになっていますが、実態はまだまだ入り口の前にいる程度なのかもしれません。ITが進んで社会的に幅を利かすようになったときに、個人がしっかり考える力を持っていれば、ITに流されることはないのではないかと楽観しています。しかし今のままではIT全体主義に飲み込まれてしまうかもしれません。