2024年10月10日
即興ってどういう意味なのだろう。大抵は即興で作るというふうに使われるようです。
突然知り合いが遠くからわざわざ訪ねてきてくれたので、即興でお昼を作ったという具合にです。
ジャズなどでも即興演奏というのがあります。その場で思いついた額装を演奏することです。
友人に誘われて、彼が毎月一回参加している即興演奏グループの様子を見に行きました。
その会は固定のメンバーなどではなく、気ままな自由参加の集まりで、どんなメンバーになるのかはその日にならないとわからないという極めて流動的ものです。今回は20人ほどが集まって即興演奏を楽しんでいました。
参加者は現役のプロの音楽家はいなくて、会社勤めの人、学校の先生、主婦などでした。年齢は五十代から八十代てせ、とびきり若い人はいませんでした。
街中のプロテスタントの教会でやっています。即興演奏のためというお遊びが目的では枯れられないので、一応名目は「平和を祈るメディテーション」ということでやっています。
始まりは七時ですが十五分前からだんだんと人が集まってきて、七時の教会の鐘が鳴り終わると、みんな席に着き、黙祷のような沈黙があり、そのあとで即興が始まります。人数は多い時には30人を超えるというし、楽器もサクソフォン、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン、チェロというもので、一時間の間、好き勝手に音を出して過ごします。
単純に音を出すと言うのではないようで、その会場に着くまでイメージできずにいました。
始まると各々が音を出すのですが、即興ですからバラバラに始まります。しばらくの間はお互いに探り合っているのですが、しばらくするとはっきりしたメロディーとリズムが登場してきます。その時点ではすでに即興という雰囲気から抜け出てしったような感じでした。各々がバラバラに楽器で音を出しているという意味では即興なのでしょうが、ただ音を出し合って音の流れを一時間楽しむということのようで、即興は感じることがありませんでした。
流れの中で、その流れにふさわしいものを添えるというのはセンスの必要な行為です。そこが欠けていて、即興精神ではなく、自分を主張しているような印象を強く持ちました。結局人間は自己主張から退かれられない存在なのだろうかと感じてしまったのでした。
今回のようなあり方は即興というものからは離れて、流れの創作といった方がふさわしいような気がしました。人生というのも外を流れている状況、時間に今の自分がどのように関わるのかという創作なのではないかとふと思ったりもしました。
ジャズのアドリブ、即興演奏も今ではパターン化してしまっていると聞きます。即興というのはそれほど難しいものだということなのかもしれません。
即興というのは瞬間的な直感的な創作行為のような気がするのです。いつかお話しした、能楽にみられる即興性、つまりリハーサルなしで舞台に上がる能楽師は、何百、何千、何万回と上演されてきた古典的な作品すらも、毎回即興的に演じているという方が、即興の醍醐味を感じてしまうのです。
2024年10月8日
言葉が常に変化する流動的なものだと言うことは百も承知していますが、年を重ねると若い人たちの使う言葉が気になるものです。そうした時世代をひしひしと感じてしまうのですが、今の若いものはなんて野暮なことは言わないまでも、不自然を感じるのです。そんな時、言葉は変化するのだと心の中で言い聞かせる訳です。
日本語を遡るときに、平安時代までは何とか読めることに驚きます。さすが万葉仮名まで時代を遡ってしまうと、手が出ませんが、平安時代までならず辞書を片手に文法の約束事を踏まえれば何とか読めるものです。万葉仮名は別格で、多分、平安人にとっても万葉仮名はすでに難しいものになっていのではないかと考えています。
日本語は、西洋の書物を翻訳することから、単語を新しく作ったので、言葉の姿が大和言葉からガッと変わってしまいました。ところが文法は流石にしぶとく、西洋的な発想で日本語の使い方を説明することは十分できず、変革の憂き目に遭うことはありませんでした。
古い文学を読んでいときに感じるのは、言葉は変化はするものの、進化するものなのだろうかと言うことです。ダーウィンの進化論が罷り通っていた時には、進化ははべての分野でもてはやされ誇らしいもので、その影響は言葉にも、社会制度にも見られ、どんどん進化するものだと思い込まされていた様な気がします。社会主義は資本主義の後に来る進化したものと考えられていたのです。
しかし私の個人的な感想だと、古典のものを読んでいるときに、言葉は進化すると言うよりもむしろ退化するものではないのかと言うことです。古い言葉の方が輪郭がはっきりしていて、迷いがなくキッパリとしているのです。説明のための単なる道具ではなく、表現が何かを伝えようとしているのでしょう。個人的には、昔の言葉の方が詩の言葉に近い様に感じます。今の言葉はすっかり説明文で、散文になってしまったのです。電気製品の説明が気のような文章は今までなかったものです。そして悲しいかな、詩までもが散文になっているのです。
簡単にまとめると、言葉から詩の要素が薄れてきていると言うことだと言えそうです。言葉の中に詩の要素が生きていると、その言葉には違う息吹が通っていて、言葉の中に人格を感じます。気骨もです。今は上手に説明することがとにかく大事で、言葉の息吹とか気骨とかということはあまり考慮されないようです。
言葉の未来はどん風に捉えられるのでしょう。
これからどんどん言葉は力をなくしてしまうのでしょうか。
それは人間の精神生活にとってよくないことなのでしょうか。
個人的には、長い目で見ると、悲観的にはなりません。なぜかというと、言葉はいつまでも言葉としてありつつけるものではないと思っているからです。むしろ今まで人間は心のことや、精神性をあまりに言葉に頼りすぎていたと言ってもいいのです。ところがこれからは、言葉では語れない精神性というものが、焦点を当てられる様になってきます。非言語化が際立ってくるのではないかと思うのです。
私はドイツで生活しているので、ドイツ人が何でも言葉にして説明することに少し辟易を感じています。逆を言うと言葉になってない部分は理解されていないのです。これは知性に傾きすぎた弊害で、日本人である私からすると非常に滑稽な現象で、もしこのまま何でも言葉にするとなると、人間生活、特に精神生活は硬直化してしまうような気がします。つまり語彙、ボキャブラリーが豊富になると優秀な言葉と評価されるのでしょうが、それは単に知的な言葉になったに過ぎないのです。すでに知性の産物としての言葉は広く普及しているのです。既に言葉は用を足すための道具となっています。知的精神生活は饒舌なものなのです。
言葉に感情とか、意思とか言うものが、比重を持ってくれば、言葉数はだんだん少なくなっていくのではないかと言う気がするのです。テレパシーのようなものは、過去の遺物なのか、それとも将来のコミュニケーションの方法になっていくのか、私はこの流れを見つめていきたいと思います。
アメリカの女性がオーストラリアのアポリジニの人の中に入って生活した時の様子を書いていますが、彼らがあまりにも会話をしないことが不思議で、彼らに「なぜ喋らないのか、声は何のためにあるのか」と聞くと、「テレパシーで相手のことはわかるので喋らなくてもいい」また声は「歌うためと祈るため」と言う答えが返ってきたそうです。
何となく示唆に富む貴重な話です。
2024年10月5日
動詞は動きを表す言葉です。名詞は名前を表すものです。この二つはまるで静と動のような組み合わせです。あるいは動詞が意志の表れだとすれは、名詞は知性の代弁者です。
名詞についてはほとんど説明する必要がないのですが、動詞は複雑で補足できるものがある様な気がします。その一つは日本語ではない区別を西洋語ではしていることです。自動詞と他動詞です。何が違うのでしょうか。日本語で生活している間はこの区別に振り回されることはありませんが日本から出てヨーロッパの言葉の中に入ると、厳密な違いを持っていることに驚かされます。
例えば、go と言う動詞は、行くとか出かけるという、よく使われるものから、順調とかうまくおさまっているなどのような込み入った使われ方もしますが、いつも自動詞です。
giveで見ると、これは与えるという他動詞です。誰かに何かを与えるのです。ほとんどが他動詞として使われているのですが、自動詞になることもあります。例えば、It is more blessed to give than receive.(受けるより与える方がはるかに幸せである)の様な時です。またSomething has to give.(不吉なことがおこるよ)も自動詞として使われています。This chair gives comfortably.(この椅子は座り心地が良い)などと言うこともあります。
こうしてみると、普段他動詞として使われている動詞が、自動詞となると少しひねくれた意味が生まれてくるのが見えます。giveのときには、与えると言う普通の意味からとんでもない方に飛躍します。自動詞と他動詞を兼ね備えた動詞の場合、自動詞として使われるときには要注意です。想像力を働かせなければ辿り着かないものなのです。
簡単に言うと、他動詞の方が自動詞よりもわかりやすいものです。それは他動詞の場合目的が外の見えるところにあるからです。自動詞にも実は目的があるのです。ところが内在しているために外からは見えないので、そこを勘ぐらなければならないのでわかりにくくなってしまいます。
座るとか座っているというsitの場合、ほとんどが自動詞として使われるのですが、他動詞として登場する時にはめんどくさい手続きが必要になります。Sit yourself down beside me.(私のそばに座りなさい)では目的語が必要なので、再帰代名詞yourselfを登場させることになります。
西洋語というのは自動詞と他動詞の間を行き来しているのです。
さて日本語はどうなっているのでしょうか。私は日本語は自動詞しかないと思っています。と言うのは動作の目的を示すためにはテヲニハ、つまり助詞をつけなければならないからです。英語で言うと自動詞のlookの時に「何を見ているのか」を示すにはatをつけなければならないのと同じです。lookが他動詞になると「らしく見える」と言う意味ですから、ただ見ているとは全く違うものとなってしまいます。look one’s age.(年相応に見える)と言う具合です。
ですから外国の人が、「私富士山見る」と言うのは、彼らが見るを他動詞として使うことに慣れているから生じてしまう言い方です。日本語では見るは自動詞的ですから「富士山を」と言わないといけないのです。
自動詞しかない日本語?というのはどう言う言語なのか言うことですが、推測でしか言えないとは思うのですが、目的が内在している言葉ということです。西洋語の場合は動作の目的が外にあるのでよく見えるのですが、日本語の場合は自動詞主体ですから、目的となるものが内在しているので、外目には見えにくいと言うことです。そのためにきっと「空気を読む」などという西洋では全く不必要な感覚が磨かれるようになるのかもしれません。自動詞しかない日本語によって鍛えられた感覚です。
英語だけでなくドイツ語にも当然二つの区別はあります。見るという意味で使われるschauenは自動詞で、sehenは他動詞です。Ich sehe die Weltは「私は世界を見る、見ている」と言う単純な行為ですが、Ich schaue in die Weltとなると、同じ見るですがただ見ていると言うだけではなく「私は世界の中に居て周囲を見渡している」という意味になります。日本語では想像つかない違いが自動詞と他動詞を使い分けることで表現できるのです。翻訳や通訳の時には神経質になる部分です。