バンクシーを見ました

2025年3月9日

謎の画家バンクシーは日本でも関心を持っている人がいる、路上芸術家です。アートと呼ばれるものはなんでもやるんので、焦点が合わせられない人です。

今ドイツのミュンヘンで「バークシーの家」と題された展示会が催されています。知ったのが遅かったので終わってしまったと思っていたら一ヶ月延長されたと聞いて行ってきました。

その展示会について書こうとしているのですが、うまく筆が進みません。描くことがないのではなく、私が何か書いてもしょうがないのです。書かれなくてもいいのです。つまらないことを書いたら作品が台無しになってしまうような感じです。

 

多くの作品が壁に絵を描くというものです。風刺的な題材が多いです。しかしどんな作風にも属さないので超題材的です。シュール題材です。何が書かれているのかわからないことが結構あります。それでも絵から何かを感じます。

そうしたえを何枚か見てふと気がついたのは、彼の絵は俳句みたいだということでした。俳句が良くなればなるほど現実から離れ、一番現実的に穿っているという素晴らしいところです。わかったりわからなかっり矛盾も甚だしいのですが、魅力満載です。春休みで子どもが目立ちました。大人よりも却って直接作品を感じているようでした。横でつまらない解釈を大人がしている方が滑稽でした。

書かれたものの中で一番多いのが風刺ですが、風刺画というようなジャンルには属さないものです。政治的な風刺なのですが、そこにはユーモアがあり、政治を超えているので素直に絵の世界に入ってゆけます。

不思議な愛情がバークシーが多くの人に愛される所以です。

競売で30億円に迫り上がったものもあります。ユニークなのはそのお金のゆくへです。彼は金儲けで絵を描いているのではないので、絵やオブジェが売れた時のお金はみんな寄付です。

彼の絵からは今まで知らないインスピレーションがもらえます。結論が認められていない分、どんなふうに絵を見てもいいのですが、きっと見た人たちは似たような印象、インスピレーションをもらっているようです。

見にきている人たちは、教養として芸術作品を求めて足を運んだ人ではなく、奇抜な人もいなくてごくごく普通でした。子どもの顔を見ていると、多分彼らが一番よく理解していたのではないかと思ってしまいます。

王子と乞食。金持ちと貧乏人

2025年3月8日

王子と乞食という話しを子どもの頃にワクワクして読んだ記憶があります。立場を変えては見たものの、結末は、やはり育った環境が一番いいというもののようでした。都会のネズミと田舎の鼠と言う話しもよく似たもので、子ども心には何か夢があるようで印象深いものでした。

いい時代だったのかもしれません。

現代社会では貧富の差はますます広がっていると言うのが経済学者の得意な話です。世界が分断されてしまっていると言うのです。これは現実に起こっている深刻なことです。

貧富の差はあっても、それが極端でない限りはあってもいいものなのですが、お金があるところには使いきれないほどがザクザクとあり、ないところには食べるのもままならない貧困状態ですから、緩和できるものなら是非していただきたいと願うところです。

人間同士の間には差があるものです。背が高い人もいれば低い人もいます。太っている人もいれば痩せている人もいます。足の速い人遅い人、山登り得意な人苦手な人、高いところが好きな人苦手な人。差があっていいものなのです。高校の時に一番背の高い185センチの奴が、頭ひとつほど違う一番背の低い158センチの奴といつもいつしょにいたのです。すごくバランスの取れた姿でした。

その違いを集めて統計的に整理して平均値というものを出す人がいます。学校のテストの時に、今回の平均点は何点でしたということが報告されていたように記憶します。平均値というのがなんの意味があるのかがよくわかりませんでしたが、平均点より上だったと喜んでいる生徒もいました。何を喜んでいたのでしょう。

誰一人として同じ人がいないわけです。しかも平均値と重なる人などもいないのですから、平均値というものが何を整理したものなのかと首を傾げてしまいます。それを必要とする平均、ないしは平等という思考方法に問題があるのかもしれません。

戦争の犠牲者である避難民も同じように無くすべきものです。難民を作っている戦争をなくすべきなのですが、戦争で豊かになる人もいるというところに問題があります。その人たちの都合で社会が動かされているからで、豊かな人たちがもっと豊かになりたい社会だということのようです。戦争はそのための手段ですから、戦争は終わらないでほしいと願っている人たちなのです。

今の社会から王子と乞食と言う話しが生まれたらどのように描写されるのでしょう。現代版の王子と乞食です。ビル・ゲイジさんやイーロン・マスクさんがホームレスになって街の片隅に座っているというのは考えにくいです。なぜでしょう。

現代は嫌な時代なのでしょうか。

政治は渦。嘘どころではない騙しの世界。偽善者たち。

2025年3月7日

嘘と本当が混じり合っている世界を生きているのだとつぐつく思うのです。だから嘘もまんざら悪くないと思える。嘘も方便である。法華経という仏典にも方便品がある。嘘には色々な種類があるので、嘘の種類によっては本当が磨かれているのかもしれないと思ってしまうほどだ。

ところが騙すというのは違う。嘘の限界を超えているからだ。人を騙すことは悪質なものである。事実を曲げで騙すことはもっと悪質である。そうした騙すことが悪に属すのは、騙すことで自分の利益だけを考えているからだ。嘘が嘘で終わってしまって跡形もなく消えてしまえば嘘は嘘だが無害である。だが騙すことで利害が加わると善悪の世界に踏み込む。駆け引きが始まり、自分が得をするコツを覚えてしまうと大変である。味を覚えたら最後もう足が洗えなくなってしまう。ここで人間は人相が変わってしまう。政治の世界によくみるものだが、政治を本当を貫きやっている人もいるので、政治が騙し合いの場だとは言えないが、それは本当が世の中に稀にしかないように珍しいことだ。そういう政治家がいると知ると生きていることを賛美したくなる。

騙すことで儲かるのだと味を占めてしまうと人間の欲はもっともっとなので、ますます騙すことが喜びとなって騙しの悦に浸ってしまう。もう人相と言えるものではなくなっている。善悪の感覚が麻痺してしまって、ただ貪欲の道を直走り(ひたはしり)する人は、騙すことに良心の呵責すらも感じなくなっているので顔は引き攣っている。人相は仮面に代わっている。彼らは仮面の奥でほくそ笑んでいる。偽善である。

本当だけでできている世界、そういう世界があるのかもしれないが、私の想像力ではたどり着けない話である。天国というのがそんなものだと書いてある本を読んだこともあるが、今はまだ信じきれない。天国の扉を開けたら光一元の世界が広がっているらしい。そこには影すらないのだと言う。そこが自我とか人格とか言っている人生とは違った次元の話だとすれば、そんな世界もあるのかもしれない。