2024年10月2日
モーツァルトの音楽というのは透明な水晶のようなところがありますから、そのピュアなところに惹かれ若い頃は一時期夢中になって聞いたものでした。が、ある時を境にあまりの透明さ故に逆に飽きてしまったようなところもあり、いつしか遠のいてしまいました。そんなモーツァルト歴なのですが、最後の曲であるレクイエムは例外的に繰り返し聞いていた音楽でした。
この曲は、通説としては、涙の日ど題された途中までがモーツァルトの手になり、その後は他人がつぎたしたと言うことになっていますが、私にはそれはどこかで作られた話のような気がしてなりません。お金のために、モーツァルトの奥さんであるコンスタンツがそういう話にしたと言う説もあります。他人の手になると言われている後半部も、前半部に劣らないほどの緊張感と安らぎとスケールの大きさを含んでいるので、私にはモーツァルト以外の人が書いたとは思えないのです。
私は宗教曲というのがあまり好きではなくほとんど聞くことがないのですが、例外はヘンデルのメサイヤとモーツァルトのレクイエムです。なぜこの二つの曲にそれほど惹かれるのかと言うと、ヘンデルのメサイヤはヘンデルが脳溢血で倒れて、ドイツのアーヘンと言う温泉で湯治し、健康を回復した後に作曲されたもので、深い喜びに満ちているからだと思います。その時の喜びが直接ひしひしと伝わってくるのです。モーツァルトのレクイエムは少し違います。ある日、見知らぬ人が訪れて来て、彼にレクイエムを注文するのですが、もうこの時はモーツァルト自身、健康と言えるような状態ではありませんでした。まるで自分の最後を弔うような、そんな意気込みで作曲されているからだと思います。このレクイエムを聞いていると、モーツァルト自身がこの曲の中に生まれ変わっているような気がしてならないのです。レクイエムですから日本語では鎮魂歌となり、死者への安らぎの祈りの音楽なのですが、モーツァルト自身がこの音楽の中に死んでゆく自らの姿を蘇らせているような気がしてならないのです。という事は、ヘンデルも病気から回復し復活する魂の喜びをメサイヤに託しているので、この2つの曲には復活と言う共通点があるのかもしれません。
二つの音楽は全く別の方向性を持っています。一つは死に向かい、もう一つは死から蘇るのですから。しかしどちらも根っこのところで一つで、聞くものの魂を揺さぶる大きなエネルギーを感じます。ただ単に音楽が作られたと言うよりも、全身全霊を込めて、音楽の中に命が蘇っているような気がするのです。こういうリアルな魂の体験と言うのは、たくさんある西洋音楽の中でもあまり体験できるものではなく、特筆したものだと思います。
実は妻の妹が膵臓癌ということで、今、生と死の間をさまよっています。一時は余命宣告を受け別離を考えたのですが、今は少し落ち着いているようです。義理の妹と私とは10歳違うのですが、誕生日が同じと言う不思議な縁があり、そのせいかとても近いものを感じるのです。その彼女のことを思いながら、ここ二週間は毎日のようにモーツァルトのレクイエムを聴いていました。彼女の死を弔うと言うよりも、その音楽の中に聞かれる復活する生命を彼女に送りたかったのです。ここ何日かは高い熱に苦しんでいますが、意識は鮮明で、電話で話すことができます。是非、克服して帰ってきて欲しいと思っています。
2024年10月1日
文法と言うのは難しそうに見えて、本当は単純なものではないかと思うことがあります。それなのに、文法と言うのは、何かとないがしろにされているようです。
どうして文法がないがしろされるようになつてしまうのかということですが、言葉は何かを説明するためという考えが基本にあり、ネット上の言葉の使われ方などを見ていると、学問的であれ、評論的であれ説明が大半というかほとんどです。みんな賢く振る舞っていて、どこに首を突っ込んでみても、お利口さんの集団です。大事なのは上手に説明するための整理された知識であり、そのための語彙です。みんなはそれらを巧みに駆使しています。典型的な知的なタイプです。ところが老子の言葉で言えば、「知る者は語らず、語るものは知らず」と言うことの様ですから、知識というのは満足に知らない人たちにとって都合のいい道具であり、武器だということのようです。
文法は少し特殊です。ただ特殊なだけでなく、実は大切なものだと言うことはぜひ知っていただきたいのです。実際に言葉を使っている時には表立っては見えないものですが、文法がなくなったら大変で、言葉はガラクタ同様になってしまい機能しなくなります。箍(たが)の外れた、桶であり、タライであり、樽ですからバラバラになってしまいます。単語だけがぶさまにゴロゴロと転がっているようなもので、例えて言えば外国語を単語だけ並べてどうにかしようともがきながら何かを訴えているようなものです。正真正銘のブロークンです。
会話などでは文法が少しくらい間違っても語彙さえ押さえておけば大方通じるものだて考えられていますから、文法などはどうでもいいと言われてしまうものですが、文法のない言葉は箍の外れた桶ですからバラバラで姿見が悪いです。文法は言葉に姿、形を与えます。語彙だけでは形ができないのです。ということは人間は知性だけではまだバラバラだということです。知的な人間というのは実はバラバラだと言うことなのです。人間を人間たらしめているのは意志です。文法は言葉の意志を司っているものなのです。樽は箍があって初めて樽になるのです。
日本語の場合は少し特殊かもしれません。文法の位置付けがヨーロッパの言葉とは随分違います。日本語にあってまず大切なのは語彙同士のつながりであり、次に単語を、語彙をどういうシチュエーションで使うかということです。これはまさに空気を読むという離業のことで、空気が大役を演じるので、成文化された規則としての文法ではないようです。文法という成文化された規則よりも、空気という見えない、成文化されていないものが文法の役わりを演じているのです。ですから文法の代わりに空気を読むことを会得すればいいのかもしれません。しかし空気となったとは言え、文法は文法なのです。ですから、文法の本質的なところはしっかり抑えておきたいと思います。
文法には言葉の意志が潜んでいます。ここがとても大事なところです。語順を変えるだけで、意味と言うよりもニュアンスが変わってしまいます。これは文法的テクニックですが、知らずのうちにずいぶん使っているものです。あるいは物事を婉曲に言おうとするときには、接続法と言う特殊な形を使います。これなどはほとんど日常的に使われているので、文法的に説明しようとする人はいないと思いますが、厳密に言えば文法処理だと言うことです。「お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか?」などと言う言い方は、表現としては上等な部類に入ると思います。こういう事は文法の基礎をしっかり抑えておけば、うまく使えるようになり、用を足すだけの日常会話ではなく、日本語で言うならば、丁寧語や謙譲語のようなものが文法によってうまく表現されるのです。
ヨーロッパの言葉を学ぶときに、特に日本人からすると、文法と言うものを手がかりにして学ぶとその言葉の全体像が見えてきます。会話をしているときに、ただ言葉を並べているだけではなく、そうした文法的な背景を知っておくと、いろいろなニュアンスを会話の中に取り込めることになります。
逆に、自分の言葉も外国も学ぶように、外から眺めてみると、意外な発見があるものです。同じ道が行きと帰りとでは全く違う風景を見せるようなものかもしれません。
また文法は言葉自体の骨組みをしっかりと支えているので、言葉を比べるときに文法を手がかりにするといろいろな発見があるものです。
文法の不思議に気づいてみると、言葉と言うものが生き物だと言うことに気がつきます。
2024年9月20日
色々と人の話を聞いているときに感じるのですが、話が体に入ってくる体験と、話がそばをただ通り過ぎて行ってるだけの時があって、その違いは何なんだろうと考えるのです。同じように事実を語っているにもかかわらず、ある人がしゃべると、その事柄が単なる事実で終わってしまうのに、つまりつまらないのに、別の人がしゃべると事実以上のことが話されているような気がするとも言えそうです。話の内容のリアリティーの様なものです。これはどこから生まれるのでしょう。考えてみたいと思います。
落語などにも共通していることの様です。同じ噺を何人かの噺家で聞いてみると随分と違いがあるものです。もちろん好みがあるので、何がいいとは一概には言えないですが、単に個性の違いという以上の、臨場感があるかないかの違いは大きく、一番目立つのは二つ目くらいと名人と比べてみる時です。
音楽も同じ曲を何人もの人が演奏します。クラシックばかりでなく、ジャズも、ポップも、シャンソンも、歌謡曲も演歌も同じ曲がたくさんの人によって演奏されたり歌われたりしています。これが同じ曲かと言われるほどに違うものがあるのですから、面白いものです。時代の好みと言うのもありますが、音楽をどのように解釈しどのように聞いてもらいたいかそれはその人の音楽的力量、才能といったもの以上に、音楽的人生的直感によるんだと思います。以前にも書いたようにオリジナルが説得力を持っているのは、その音楽的人生的直感によるんだと思います。
落語において名人を名人たらしめるのは、場数を踏んだことで生まれる経験なのかもしれませんが、その経験を磨いていったところに宿る直感なのではないのでしょうか。直感が力を発揮するのは、その一瞬でものが決まってしまうと言う時です。音楽にしろ、落語にしろ、講演会などのお話にしても、大切な一瞬の時に、直感からのバックアップがあるかないかに尽きると思います。
直感を磨くと言うのは難しいことだとわかってくると、ようやく一人前の領域に踏み込んだことに何るのかもしれせん。ただ上手になれば良いと言うのでは無いのです。練習をすれば上手になるのですが、練習をしただけではその直感が降りてこないのです。そこがもう才能と言うしかない世界なのかもしれません。直感を感じる演奏、噺には、リラックスしたというかうまい寓意に力が抜けているのを感じるのです。うまさを超えたところにある脱力の様なものです。
クラシックの音楽でシンフォニーなどを聴いていると、指揮者が楽譜のページをめくりながら指揮をしているのを見かけますが、昔はとても不思議に思っていたのですが、最近はあることがわかってから不思議ではなくなりました。そのあることと言うのは、楽譜を見ながら演奏していると、作曲した本人と直面しその時に直感が降りてくると言うことです。音楽などは全部アンプしてしまえば楽譜など必要ないと考えるのが普通なのでしょうが、楽譜を目の前にしていると言うことで、作曲家と対面しながら、その一瞬、一瞬に直感を下ろすという作業が、指揮者の中で起こっているのです。
私たちの日常生活も実はいろいろな直感によって成り立っているところがあるのではないかと思います。探してみてください。