2025年1月21日
芸術は音楽に憧れると言います。いろいろなところで読んだ記憶がありますが、ウォルター・ペーターが出典のようです。言いたいことは抽象性が高くなればなるほど芸術としてこうしようであるということに尽きると思います。感情豊かなということよりもより抽象性が高くなることの方を芸術は望んでいるようです。純粋音楽などといういい価値もそこから生まれたのかもしれません。
この言葉の延長に、全ての音楽はバッハに憧れるというのをおくこともできるような気がします。そもそも抽象性の高い音楽のなかでさらに抽象性を実現した音楽はバッハの音楽と言えるのではないのでしょうか。今日でもバッハを最高の音楽家と呼ぶ人の数は後を絶ちません。
バッハを称賛する人の多くは、純粋に音の流れだけが音楽を作っている点を挙げます。この純粋さは、いつまでも聴いていられるし、いつでも聴けるというのです。感情的なものや、エモーションに左右されないで聴けるということのようです。
しかしこの純粋さは無機質であるとも言えるのではないのでしょうか。そしてこの純粋性無機質性に憧れるものが根底にあって今日の社会が成り立っていると考えてみてはどうでしょうか。社会は無機質なものになっているのではないのかということです。人間味、人間の温もりよりも、無機質な状態で、正確に迅速に機能することを求めているのではないのでしょうか。そのために格好な道具が今の社会を支えています。コンピューターです。IT化した社会にあっては便利が強調され、余計な手間を省くことができると主張しています。いわばそこを目指して人類は進化してきたと言わんばかりです。もう少しするとITは人間を抜くのだそうです。
人間を番号化し、車も電化することで一台一台を社会がコントロールできるようになるのでしょう。1983年という小説に登場する社会になりつつあるわけです。この全てがコントロールされる社会と、人間の感性が徹底的に抽象化されることの間には不思議にシンクロしたものを感じるのです。人間は無機質に、意味もなく、意図もなく結び付けられ、不純なものを排除することで、そこで生まれる社会は間違いなく純粋に機能するのです。
バッハのフーガは複雑化し、何声部になっても間違いなく機能しているので、演奏する人はそれを間違いなく演奏することが求められいます。演奏は間近なく演奏されることで最高のものとして評価されるのです。ピアニストを目指す音大生は、ひたすらに練習し間違わずに正確にフーガを再現することで良い成績を得るので、そこに喜びを感じるようになるのです。完璧に抽象化した音楽を再現する一員になるのです。しかし一方でバッハの代表作のマタイ受難曲に涙する人もいのです。音楽が抽象化されるほどに聞き手の感情も抽象化され、それによってわかりやすくなるのでしょうか。とすれば今の社会がどんどん無機質に抽象化して行く先には、純粋な人間関係が生まれ豊かな社会が誕生するのでしょうか。余計な感情に左右されない明るい純粋な社会がです。今は少なくともそのプロセスの中にいるとでもいうのでしょうか。
音に命を吹き込むなどと言うと、音の抽象性が損なわれるのでしょうか。一音一音は生き物だと考えるのですが、そうすると粗雑なものが混じってしまって音楽の質が低下するのでしょうか。音は純粋でなければならないとなると、水清くして魚住まずになってしまうように感じるのですが、命のあると音と純粋な音とは両立しないものなのでしょうか。
ある時、仲さんのライアーのバッハは浪花節ですねと言われたことがあります。褒められたのか、評価していなかったのかと迷ったのですが、多分後者です。今日ではチェロの巨匠ということで高く評価されているスペイン人(カタロニア人)のカザルスさえチェロの無伴奏を世の中に披露した時に、泥臭いと酷評したドイツ人たちがたくさんいたそうです。
抽象志向、純粋志向は今日の音楽の中に思いのほか深く根付いています。
私がライアーを弾いているのは、これと戦っているということなのかもしれません。正確な演奏を目指しているわけでもなく、一音に命を吹き込むようにして抽象的なものにならないようにしているのですから、時代の趨勢に逆らっているとしか言いようがないのかもしれません。
2025年1月12日
近くの公園の池には貸ボートがあって、そのボートに一人で乗っていると想像してみてください。
そのボートに乗って池の真ん中の中島の方にゆこうとしているのですが、ボートの中にいる私がどんなにもがいてもボートはただ揺れるだけで一向に動き出すことはありません。前にも後ろにも動かないので中島に辿り着くかどうどころでなくどこにも向かうことはできないのです。
この様子は滑稽でもあり悲惨な状況とも言えます。どうして動き出さないののかと言うと、ボートの中の内力、つまりボートの中から働きかけている力はボートを動かす原動力にはならないからです。ボートが動くためには外からの力、働きかけが必要なてのです。
私たちが自分と思っているものも実はこれとおんじなのです。このボートで起こっていることは、私たちと私たちが自分と言っているものの関係にそっくりなのです。私たちの自分と思われているものは、実は無力で、私たちの中でもがいても私たちを前に進ませることなどできないのです。ボートが動き出すためには外からの力添えが必要だと言うことでしたが、具体的にいうと誰かに押してもらわなければならなのです。押してもらえさえすればボートはすぐに動きはじめます。押してくれる人にどこに行きたいか言えば、その人がその方向に向かって押してくれて、ほどなく目的地である中島に着きます。
私というのはボートで、そこでボートを動かそうとしてボートを揺らしているのが自分です。
この原理をしっかりイメージしておくと、私たちのの中の自分とうまくやってゆけます。つまり私たちというのは自分だけでは動かないもので、外からの働きかけなくしてどこにも向かえないものなのです。その働きかけを周囲からの、あるいは他人からの刺激と言っていいのですが、いろいろな刺激を一生の間貰い続けて生きているわけで、その刺激が実は私たちの自分であったりするのです。
例外はもちろんあります。天才と呼ばれる、外からの刺激以前に自分が活動し始めてしまう人たちです。自閉症の人の中に絵画的な素質に恵まれた人たちがいますが、この人たちも自分で見たものだけで独自の絵の世界を作るコテとができます。特にサヴァン症候群の人たちです。だたこれは例外で、ほとんどの人は外からの刺激で私というボートが動いているのです。普通は外からの刺激を受けずに一人だけで生きているとすると、ただの思い込みの中に閉じ込められてしまいます。ロビンソン・クルーソーは一人では行き詰まっていたに違いないのです。そこから物語が生まれてこなかったのです。ロビンソン・クルーソーがとりあえず人生と呼べるものを展開するためにはどうしてもフライデーが必要だったのです。
ここで自分と言っているのは、人によっては自我と呼ばれています。自我はイメージ的には真空状態にあるものだと思っています。そこには自分というものと外からの刺激が混ざり合うのです。体的にいうとそれは血液です。血液というのは酸素を取り入れて体の隅々まで運ぶものということになっていて、そればかりが強調されますが、血液は自分の中からのものと外からの刺激とが出会っているところでもあるのです。
2025年1月10日
それぞれの地域が特色を表しているように、それぞれの時代もそれぞれの特色を持っているものです。
それを西洋哲学がいうように発展とみなすのは無理があると私は思っています。
時代は変化はするもので、進化するという考えるのは強引すぎ無理があります。それは今が一番進んでいるという驕りにすぎないのです。また進化という考え方には「・・であるべき」という押し付けが入り込んでくる隙間を感じます。「・・すべき」は結構危ないものです。
百年前と比べて今が進化しているといえるのでしょうか。テクノロジーなどを見れば便利になりました。百年前にはテレビ電話など夢のまた夢でした。そこに関しては便利になり、ベリが進化であるのならな進化です。しかし人間として、人間性が百年分進化したのかと言うと。そんなことはないのではないかと思います。むしろ退化していると思えるものも少なくありません。
経済的に見ればみんなが昔に比べると豊かな経済力を持っています。産業的にも比べ物にならないほど進化しています。ただそれだけが時代を比べる時の基準だとするのはあまりに物質主義的に偏りすぎていて、精神の部分が見落とされています。
話を音楽に移します。現代音楽というのに興味があり、時々演奏会で聞くのですが、何をどう聞いていいのか、未だに分かりません。大抵首を傾げながら帰ってきます。音楽技法は色々と講釈されていますから、プログラムを読めば分かりますが、音楽は読み物ではないので、聞いて何とか感じたいのですが、どうしても距離を感じてしまいます。それでもまだギブアップしたわけではありません。引き続き聞いてゆこうと思います。
現代音楽には長い作品が少ないです。たっぷりと現代音楽の温泉に浸かったと言う経験は今はまだありません。ちょっとつまみ食いをす程度の長さのものが多いようです。記憶に残るようなものも少なくそのためか全体像とか印象と言えるものを持てずにいます。
短いと言うのは決して悪いことではありません。今は長々とした長編小説よりも、心の中を簡単に吐露するようなものの方が好まれるようです。インスピレーションで共有できるからかもしれません。時代は説明よりも直感的に理解したいのかもしれません。日本の俳句が世界的にブームになっているのはそうした背景があるからなのかもしれません。
現代人は十九世紀、二十世紀ほど深刻にものを考えなくなっているのかもしれません。絵画もドロドロしたものより、傾向としてはグラフィック的なものが支流です。服装も単純化しています。
長々と説明されることは苦手な現代人とみていいのでしょうか。SNSの伝達の要領も電報風と言える短さです。「チチキトク。シキュウカエラレタシ」のようなものです。それでは何も伝わらないと思うのは古いからなのでしょうか。
こんな時代的風潮の中でたっぷりした心に沁みる音楽を現代音楽に期待する方が間違っているのかもしれません。特に現代音楽は、そもそもクラシックのジャンルのものですから、知的傾向が強いものです。しかし現代に至っては、その傾向はますます助長していて、音楽体験は知性に委ねられてしまっています。音楽は知性によって支えられているのです。人間を知能指数で表そうとしているようなものだとしたら、何かが欠けているように思うのは私だけでしょうか。
こうなってしまった時代にブレーキをかけられるものがあるとしたら何だろうと考えるのです。ただ芸術だけです。役に立つという路線から離れ、無駄の中に価値を見出せる精神と言ってもいいのかもしれません。
生きる中で楽しいものを探してもいいのではないか、その楽しさの中でリラックスしてもいいのではないのか、そこに予定外の価値を見つけることができるのかもしれないのです。芸術だけでなく物作りも大切なことです。頭に凝り固まったものを手を使ってほぐすのです。そうしていると人々の目がまだ輝き始めそうな気がしてなりません。