2025年1月10日
それぞれの地域が特色を表しているように、それぞれの時代もそれぞれの特色を持っているものです。
それを西洋哲学がいうように発展とみなすのは無理があると私は思っています。
時代は変化はするもので、進化するという考えるのは強引すぎ無理があります。それは今が一番進んでいるという驕りにすぎないのです。また進化という考え方には「・・であるべき」という押し付けが入り込んでくる隙間を感じます。「・・すべき」は結構危ないものです。
百年前と比べて今が進化しているといえるのでしょうか。テクノロジーなどを見れば便利になりました。百年前にはテレビ電話など夢のまた夢でした。そこに関しては便利になり、ベリが進化であるのならな進化です。しかし人間として、人間性が百年分進化したのかと言うと。そんなことはないのではないかと思います。むしろ退化していると思えるものも少なくありません。
経済的に見ればみんなが昔に比べると豊かな経済力を持っています。産業的にも比べ物にならないほど進化しています。ただそれだけが時代を比べる時の基準だとするのはあまりに物質主義的に偏りすぎていて、精神の部分が見落とされています。
話を音楽に移します。現代音楽というのに興味があり、時々演奏会で聞くのですが、何をどう聞いていいのか、未だに分かりません。大抵首を傾げながら帰ってきます。音楽技法は色々と講釈されていますから、プログラムを読めば分かりますが、音楽は読み物ではないので、聞いて何とか感じたいのですが、どうしても距離を感じてしまいます。それでもまだギブアップしたわけではありません。引き続き聞いてゆこうと思います。
現代音楽には長い作品が少ないです。たっぷりと現代音楽の温泉に浸かったと言う経験は今はまだありません。ちょっとつまみ食いをす程度の長さのものが多いようです。記憶に残るようなものも少なくそのためか全体像とか印象と言えるものを持てずにいます。
短いと言うのは決して悪いことではありません。今は長々とした長編小説よりも、心の中を簡単に吐露するようなものの方が好まれるようです。インスピレーションで共有できるからかもしれません。時代は説明よりも直感的に理解したいのかもしれません。日本の俳句が世界的にブームになっているのはそうした背景があるからなのかもしれません。
現代人は十九世紀、二十世紀ほど深刻にものを考えなくなっているのかもしれません。絵画もドロドロしたものより、傾向としてはグラフィック的なものが支流です。服装も単純化しています。
長々と説明されることは苦手な現代人とみていいのでしょうか。SNSの伝達の要領も電報風と言える短さです。「チチキトク。シキュウカエラレタシ」のようなものです。それでは何も伝わらないと思うのは古いからなのでしょうか。
こんな時代的風潮の中でたっぷりした心に沁みる音楽を現代音楽に期待する方が間違っているのかもしれません。特に現代音楽は、そもそもクラシックのジャンルのものですから、知的傾向が強いものです。しかし現代に至っては、その傾向はますます助長していて、音楽体験は知性に委ねられてしまっています。音楽は知性によって支えられているのです。人間を知能指数で表そうとしているようなものだとしたら、何かが欠けているように思うのは私だけでしょうか。
こうなってしまった時代にブレーキをかけられるものがあるとしたら何だろうと考えるのです。ただ芸術だけです。役に立つという路線から離れ、無駄の中に価値を見出せる精神と言ってもいいのかもしれません。
生きる中で楽しいものを探してもいいのではないか、その楽しさの中でリラックスしてもいいのではないのか、そこに予定外の価値を見つけることができるのかもしれないのです。芸術だけでなく物作りも大切なことです。頭に凝り固まったものを手を使ってほぐすのです。そうしていると人々の目がまだ輝き始めそうな気がしてなりません。
2025年1月8日
専門家には専門家の美しさがあります。いっしようをその仕事に捧げた姿は凛として、私の背筋が伸びます。
またアマチュアにはアマチュアの清々しさがあります。そこに見られる違いは明確ではないですが、やっていることを生業としてやっているということだけではないようです。
アマチュアという響きはプロとは違って緩いものを感じますが、昔読んだ本の中に、イギリスにはプロ以上のアマチュアが生まれる土壌があるというのです。気骨のあるアマチュア精神のことです。アマチュアというと一見暇人にもみえなくもないですが、生涯アマチュアを通すというのですから、プロの意気込みとは違った気骨のある人たちには違いありません。
ここでいうアマチュアというのは素人とも違うものです。本気です。イギリスのアマチュアはイギリスのアマチュア気質なので、日本人的国民性には見られないものかもしれません。だからでしょうか、それを読んだと時にすごく憧れたのです。教えてくれたのは平凡社の百科事典の初代編集長の林達夫さんでした。哲学的な仕事をされる傍ら岩波文庫のファーブルの「昆虫記むやベルグソンの「笑い」の翻訳者でもありました。彼そのものがアマチュア精神を生き抜いたような稀有な人でした。
物事を成就するにはいい意味での執着が必要です。天才的な人たちはみんな何がしかの執着に突き動かされているようです。時には悲劇的でそれで燃え尽きてしまう人もいます。アマチュア精神はムキにならないことでその執着から解き放されているわけです。ただアマチュアとしての執着は持っているのです。ここが分かりにくいところです。
アマチュアのこだわりを見つけることが私の今年の課題のようです。
芸の道はその答えを示しているように思えてなりません。
いつまでも終わりがないものだということです。一生は短く芸の道は長し。
初めては飽き、飽きてからまた始める。いい加減さの持続。
2025年1月8日
年末年始は友人と会う機会が多くなります。一年の締めくくりという口実をつけて飲み会などをするのですが、古くからの友人だけでなく、たまに初めて会う人も紛れ込んできたりします。それはそれで楽しいものです。今年はドイツの中に限っていうと何人かの新しい人と会う機会がありました。
その度にいろいろな人がいるもだと感心してしまいますす。初めてなのに初めてを感じさせない人もいれば、以前にあったことがあるのに、いまだに馴染めないといった人もいます。
そんな中に、自分は特別な人間だと言いたげに振る舞っている人がいて、気分を害していました。私にとって特別な人というのは、きっと本人は何も特別だとは思っていない人のことでなのですが、その自称特別な人は自分を特別と思っているだけなので、鼻持ちならない輩に属しているので本来なら会いたくないような人種です。
本当の意味で特別な人は透明感があります。ところが自分を特別と思っている、自称特別人は透明とは縁遠く、薄汚れていて、濁っています。一緒にいると不愉快になるオーラをむんむんとさせています。
自惚のなせ技だと確信しています。なのですが、いついかなる場にあっても特別扱いされたがるわけですから、一緒にいると疲れます。特別扱いされたいがために出世街道を歩く人もいます。議員さんなどは制度的に特権を使い放題できる特別階級ですから、特別扱いされたい人たちは議員を目指すと言われたことがあります。私にとって議員というのは本来そのような意識でなるべきものではなく、奉仕精神の塊のような人がなるべきものなのに、現実は全く反対で、特別扱いされたい気持ちが優先してしまうのでしょう。
その人たちは権力を振り回したがる人とは違います。特別待遇を欲しがる人は権力闘争とは別のところにいます。どちらかといえば漁夫の利を狙っているような狡い人です。自己満足が優先的に働いて、それを満たしたいだけなのです。結局は自己満足に終始する質の悪いエゴイストです。
これは人間の業、あるいは性なのでしょうか。いつの時代にも、どこの国にもそういう輩はいるものなのです。人間とは性善説をとるべきなのか性悪説かとも違う、自分が可愛くて仕方がない器の小さい小心者ですから、小児症患者、つまり成人になりきれていない大人ということです。いつまでもガキなのです。大人になると謙虚と謙りの意味がわかってきます。
日本の政治家の大方はこのような傾向にある人の集まりなのかもしれないと思うと、自己満足の満たし合いのような場が国会ということになってしまいますから、お先真っ暗ということになってしまいます。日本だけでなく、自分のことなど省みないイサギの良い政治家がどんどん出てきてほしいと願うばかりです。
新年早々暗い話で申し訳ありません。