2024年9月16日
私の講演会を主催されてきた皆様
ブログを読んでくださっていらっしゃる皆様
毎年秋には日本にいるということに、ここ30年はなっていました。すでに今年はどうなされるのですかと聞かれていたりしています。
実は春に日本からドイツに向かう飛行機の中で、健康上の小さなハプニングがあり、今年の秋の日本行きを決めかねていたのです。
体調は色々な検査をした結果特に気にしないでも済むような状態に戻っています。それで今年も少し遅れた日程ですが、日本に行くことを決めました。
幸い飛行機の切符の方は、今まで以上の価格ですが息子が手配してくれていて、まだ何とか取れそうです。去年の十二月で33年お世話になった旅行会社が閉じてしまいましたので、息子の助け舟には感謝しています。
とにかくも今年も日本に行くと決めたので、ブログでこのことを皆様に報告しておかなければと思い筆を取りました。
期日は十一月一日から十二月の十日までです。
今年からは、和歌山と奈良の友人宅に荷物を預け、置かしていただいているので、動きとしては関西を拠点とての移動とになります。初めてのことなので時の様な動きが取れるのか不安もあります。
この間にお時間が作れる方達とお目にかかれたらし願っています。私としては、声のことを整理しておきたいと思っていますので、そのワークショップなどを考えています。
ただ逗子の両親の家を整理しなければならず、そのために移動をどのようにしたらいいのかを色々と考えているところです。
もし私と何かができそうだと希望される方があれば是非ご一報ください。
とりあえず報告まで
仲正雄
2024年9月9日
先日書いた乾いた声、潤いのある湿った声について、その後いくつか質問されていましたので、補足を兼ねて、もう一度取り上げたいと思います。
その時の文章では、なぜ今の時代に潤いのある声がなくなってしまったのかと言う問いを出して締めくくっておきました。それに答えるのは実はとても難しいことだと思っています。私の個人的で主観的な立場で言うと、「声を体全部の力で作っていない」そのことに関係していると言うことです。
ある発生法は頭蓋骨をよく響かせろなどといいます。骨に響かせると言う技法なのだと思うのです。私も部分的にはそれを認めています。確かにそうすることで声の響きが大きくなる事は確かのようです。声を作るときに一番してはいけないのが、筋肉で緊張を作ってしまうことです。筋肉を固めてしまえば固まった声しか出なく、それでは非常に貧しい響きの声になってしまいます。
前回も述べましたが、体の中にある水分、つまり粘液とかリンパ腺とか言うものが声を作るときに一緒に響くことが大事なのではないかと言うことです。つまり水気を含んだ声ということですが、音と言うのはシュタイナーによると、水の力で運ばれていると言うことですから、そのことを知ってからは水分と声は近いものになりました。水分を含まない声遠くまでは届かないし、伝達しないので、空気中の水そのものということではなく、水の力と言ったら良いのかもしれないもので、声は運ばれているのです。音を運んでくれる水の力と、私たちの体内にある水分を含んだ声と言う二つの要素が出会っているのが私の声なのです。
と言うことで、小さな声でも遠くまで運んでもらもらえるということに注目したいのです。
まず筋肉をこわばらせて緊張させてしまった声は遠くになると聞こえなくなってしまいます。その声は非常に力のない声と言うことになります。力んで大きな声を出しても力んだ分、逆に声は遠くまで届かなくなってしまうのです。頑張って声を出しているのに全く成果の見られない声なのです。もう一つの体の骨に響かせる声というのがありますが、これは確かに響きは大きくなると言うものですが、そしてその結果遠くまで聞こえるようになるのですが、迷惑なのは近くにいる人で、大きく響かせるため近くの人にはとても耳障りな五月蝿い声になります。思わず耳を塞いでしまうほどうるさい声です。ところが体全体の水分と同調した声、水分をも響きに変えてしまった声の場合は、消して大きな声にならないのですが、先ほど言いましたように、空気中にある水の要素が音を運んでくれるため、その力と一緒になって遠くまで運ばれるのだと思います。
さて、ここから難しい問題に触れてみたいと思います。それはエーテルの問題です。
エーテルの存在は、私たちの物質的な力ではその存在を証明することはできません。声に関してエーテルと言う問題を取り出すのは、以前にお話しした、私の再生不良性貧血との闘病の中でこのエーテルとの出会いがあって、それによって自分の中にもう一度新しい生命力を見つけたことによります。この生命力こそが、実はエーテルと言う力で、声と言うのは、一番簡単な言い方をすれば、人間の中にある生命力が響気になっているものなのです。生命力は、人間の体の中、細胞の全てに行き届いていていますから、声と言うものを考えたときには、この体の中に広がっている生命力を全て響に変えればいいわけです。
体全部の力なのですが、物質的な筋肉とか骨ではなく、そこに浸透しているエーテルと言う力です。声がここにたどりつかないと、小さな声でよく通る声と言うのは作られないのです。物理的に考えた響き、音響と言うのは、大きな音が遠くに届くということですから、これはエーテルの力とは関係なく物質的な力だけを見て声に当てはめただけの問題です。しかし、声と言うのは機械音とは違って、つまり物質的な音ではなく、物質以上のものによって支えられている力だと言うことです。
あるところで、このことに気がついたのですが、ところが他の人の声を聞いていると、やはりある部分は今お話ししたエーテルと言う力が関与していると思われるものがあります。体がよく響いている声です。例えばお能のシテが舞台で謳うとき、体がよく響いていて、それが床に伝わり、床の下に置いてある反響の働きをする甕によって能楽堂全部に響き渡るのです。ある時私の講演会に難聴の方がいらっしゃいました。ほとんど聞こえないということで、日常の会話では全く声が聞こえないので、その方は講演会に手話のお手伝いをしてくださる方を連れていらして、私の話は手話を通して聞かれていたと思うのですが、講演の後にその方とお話ししたとき、「仲さんの声は聞こえてました」とおっしゃっていました。彼の別の経験から「お能の人の声も聞こえるのです」と言うことでした。きっと彼は物理的に響いてるだけの声だと聞こえないのでしょうが、私やお能の役者さんのように、エーテルと関係を持った声は聞こえていたのだと思います。この経験は私にとってとても嬉しい経験でした。
大急ぎで整理しましたが、この関係を整理させるためには何をしたらいいのかと言うことをよく聞かれるのですが、普通の発声練習のような練習を積んでもできるようにならないと言う問題があります。実際説明がとても難しいので、そのためのセミナーとか講習会をしたとは思うのですが、どうしたものかといつも考えてしまいます。
私の中にあるエーテルの力を見つけ出す作業は、私にとっても課題です。自分では予感的にそれがあること、それが結びついていることはわかるのですが、とにかくエーテルの力は手に取ることができないので、これがエーテルですと人の前に提示することができず、困ってしまうのです。感じてくださいと言っても、それだけでは何か無責任ないような気がするのです。
今日のところは、体の中にある水分、つまり粘液とかリンパ腺とか言った水の要素を声の中に取り込んで響きに変えると言うことと、人間の中にある生命力となっているエーテルと何らかの関係があると言うところまではお話しできるのですが、その先の具体的なところとなると、私自身にもまだよくわかっていない部分なのです。
2024年9月8日
詩の言葉と言うのは、意味を汲み取るだけでなく、そこに込められた感情、さらに意志のようなものを汲み取らなければならないため、母国語で読んだ詩も難しいのです。それを外国語でやろうとすると、母国語の時とは比べ物にならないほど難しく、普通の散文を読めるようになっても、詩はなかなか読めないものです。
なぜ詩の言葉がそれほどハードルが高いのかという事ですが、詩の言葉にはいくつかの意味が重複しています。二重の意味に気がつかないと詩の本意がつかめないと言うこともあると思います。あるいは象徴的に表現するので、具体性が乏しいと言う言い方にもなるのかもしれませんが、私たちが日常使っているようなすぐわかる言葉遣いとは違うものになってしまうのです。また暗示と言う手法もあって、色だとか形だとかといったものを引き合いに出して、言いたいことを直接ではなく暗示的に言い表すのです。それは想像力と言われたりもしています。
これができるのは詩の言葉が散文の時に使う言葉よりも凝縮しているからなのです。言い方を変えると、詩の言葉は散文の時の言葉よりも、もし測ることができるとすれば「重い」のです。だからといって、散文の言葉と全くかけ離れているかと言うと、そうではなく、散文の言葉を煮詰めたようなところがあるので、外国人からすると、その言葉の本意を掴むのが難しくなってくるわけです。
あることを表現しようとして、普通の文章で書くときと、詩で書くときと比べると、詩で表そうとすると、集中力が違ってきます。そしてできるだけ無駄なことを省いて、要点だけに焦点を合わせると言うことになります。私が大変お世話になった、名古屋のやまさと保育園の故後藤淳子先生は「園の連絡帳を和歌で書きなさい」と職員の方たちに言っていました。現実には難しいことです。けれども、それをやろうとした先生たちの感想は、「和歌で書こうとすると、子どもの良いところがたくさん見えてくる」でした。しかし表現する力は素人ではなかなか難しく、実現はしなかったようです。
この話は詩の本質をよく伝えていると思います。詩と言うのは回り道をせずに、本質にたどり着こうとするものです。普通の文章では、主観的になってしまうものが詩の力を借りると主観を超えた違う次元の世界からものを見るようになります。普通の文章を書くときの意識とは違うところに意識が行くので、言葉選びが難しくなります。紀元前にインドでは既に数学と天文学が高いレベルに達していて、そこで研究の発表をしようとすると、当時のしきたりでは、普通の文章で書くのではなく、詩で綴らなければ論文としては認められなかったということです。詩で表現することで理解が深まっていると言う事実を見せなければならなかったわけです
最後に詩の大きな特徴を言うと、詩は歌われることを望んでいると言うことです。ただ読むのではなく、できれば声に出して読み、さらにそれが歌にまでなると、詩と言うのは完結するのではないのでしょうか。詩の言葉が高い次元から来ると言いました。その高い次元に行くためには、日常の言葉を一度「殺さなければならない」のです。文学的に殺すのです。まさに死して生まれよと言う言葉が言っていることそのままです。詩の言葉は一度死んで蘇ったものなのです。それだからこそ難しい訳ですが、新しい命を得て、深い輝きを持っていることも事実です。