揃ったアンサンブル

2025年2月28日

西洋音楽のアンサンブルでは全員揃うのが常識で、そのために息を合わせて演奏します。

そうした音楽作りに慣れている人間が、雅楽に触れた時に何を感じるのでしょう。

二つ考えられます。

一つは間違っている。もう一つはここに未来がある。

極端な反応があるのではないかと想像します。

 

化学を聞いて音楽体験と言えるものがあるのかどうかも気になります。

雅楽は、楽器を使って演奏するので、音楽です。

しかし聞いている楽曲は今まで聴いて来た音楽のどこにも属さないので、面食らいます。

リズム、テンポ、アンサンブル、全てが全く違った感性に根をもっているものです。

 

雅楽は極めて特殊な音楽です。

私も雅楽の音楽と相当大人になって向き合ったので、初めはとんでもないものでした。

ただ初めから雅(みやび)な雰囲気だけは伝わっていましたから、アフリカの音楽のような土着性とは別のものと感じていました。

雅楽の後アフリカの音楽を聴くと、この音楽が西洋音楽の出発点になっているかもしれないと思えるのですが、雅楽は全く異次元のもので、西洋音楽とのつながりは感じられませんでした。ここまで西洋音楽と遠くにある音楽はないと思います。

シルクロードを伝わって日本に辿り着いたものなので、そもそもは古代ギリシャの音楽と共通点があるのでしょうが、古代ギリシャの音楽もCDなどで聴く限り、ヨーロッパの音楽の起源とは言えないもののようでした。古代ギリシャからローマえと移行する時に何かが途絶えたような気がします。

アフリカの音楽には子どもの持つエネルギーのようなものを感じますが、雅楽から聞こえてくるのは成熟した大人の感性でした。

 

雅楽は完成した音楽だと今は考えています。それは植物の種が、そこから根を出し、芽を出し伸びてゆき、やがて花が咲き実を結んで最後は種になるようなものです。雅楽はそれ以前の音楽の最後の段階の種だと思いました。そこからまた新しい音が出て、芽が出てと変化してゆくのでしょう。

今回SHOGUNという、関ヶ原の戦いの時の戦国武将に焦点を当てた映画の音楽に雅楽がふんだんに使われていると聞きました。

石田多朗さんが総合アレンジを務めたそうです。

映画を見るのが楽しみです。

縄文の美

2025年2月27日

真・善・美あるいは宗教・学問・芸術というふうに三つを一組にして私たちは何かを説明しようとしています。何かというと人間の核を形成しているものです。

三つというのは惹きつけられる数字なのでしよう。早起きは三文の徳、三種の神器、聖書にあるイエスの誕生に駆けつけた東方からの三博士、ドイツの諺にも「いいことはみんな三回する」と至る所に三が並びます。

幾何学的には三本の線から始めて面積なるものが生まれます。閉じた空間ができるのです。逆に閉じた空間を作るには最低三本の線が必要だということです。

真善美という三つを考えるときに、一つ一つの意味を吟味してゆくのも一つの方法ですが、この三つで始めて人間の精神性がまとまったものになると考えてはどうでしょうか。人によって真の捉え方は違いますし、善も美も同様です。真前後の平均など出しても全然意味を成しません。

真善美は元々は哲学の概念に過ぎないので、抽象的でかつ一般的なものです。最近そこに気が付きました。それぞれの真善美の長さや太さは一人ひとり様々だったのです。おんなじ真善美の空間はないのです。

人間の心はある空間のようなものだと考えます。場所と言ってもいいかもしれません。居場所です。ドイツ語で心のことはSeeleと言いますがSeeが海とか湖ですから、Seeleは小さな湖隣、岸くも面積を持っているのです。大きな湖の人も小さな湖の人もいるわけです。必ずしも正三角形にならなくても構いません。線はくねくねしているかもしれませんからほとんどが歪な三角形だと思います。

この真善美に囲われて精神性を含んだ感情的なものが心の中で営まれます。感情とは三つから規定されていて、中身はというと混沌としているものです。人によって善が優っている人もいれば、真が優っている人もいれば美が優っている人もいます。個人だけのことではなく、民族的にもそれぞれの特徴があります。ドイツなどは真が優っていますし、フランス・イタリアは美が優っています。

日本も美という世界が優勢なようです。もちろん他の二つもしっかりとあるのですが、私は美に軍配をあげます。それは日本の美意識には西洋の美に感じる用途としての美を感じずに、存在としての美を感じるからです。森羅万象、自然の中の至る所に美を見つけ出します。それが和歌を作り、俳句を作り、様々な文学的表現の中に浸透しています。

神は細部に宿ると言います。この延長には宗教的なものが見えてきそうですが、私には神様と同時に美も見えてきます。しかも日本での美は至る所に宿っているのです。神と美とは同義的に扱われるどころか神は美の後ろに隠れているような気がするのです。神は細部かもしれませんが、日本では美が至る所に宿っています。

最近脚光を浴びている縄文文化ですが、そこに見られる土器の美しさには驚嘆の思いでもっていつも接しています。写真で見るより実物を見るとその深さに惚れ惚れしてしまいます。現代の造形センスに通じるものを感じます。この美意識を私たちは継いでいるのかと思うと、縄文人の心と一つになれるような気がして嬉しいのです。

日本の文化には当時からの美が貫いているのです。

ライアー音楽

2025年2月26日

ライアーを弾くたびに、ライアーが自分からやりたい音楽はどう言うものだろうと考えます。今の時点では西洋の中世からルネッサンス、バロック、古典、ロマン派の音楽の中から、ライアーで弾きやすいものを編曲して弾いています。それはそれでなかなかいいもので、オリジナルとは少し趣が変わりますがライアーのゆったりした響きの中で蘇るのは醍醐味でもあります。

極力技巧的にライアーに向かうことがないように心がけているので簡単な楽曲を選んでいます。テンポは、ライアーの必然からして早く弾くと息詰ってしまうのでゆっくり目が相性がいいと思っています。和音はピアノのようには処理できません。今の音楽世界で使われている楽器と比べると不自由な楽器と言えるものです。しかし不自由には不自由のもつ良さがあると居直って弾いています。

弦の貼り方からすると、ピアノでペダルを踏んだ時のように全ての弦が響きます。弾いた音がいつまでも鳴っています。しかもピアノのように消音する装置を持っていないので、弾いた音がいつまでも残っているので、曲によっては邪魔になることがあるのです。その時はいちいち手で消音するのですが、消音にこだわっていると、演奏が疎かになってしまいます。それにその動作は目障りでもありるので、よほどのことがない限り放っておきます。

弾いていて感じることは、この楽器では今日の音楽ファンの期待通りに音楽的に弾くことはできないと言うことです。音楽だから音楽的に弾くのは当たり前なのですが、どうもその辺りがこの楽器の持つ特徴のようで、音楽的でない方がこの楽器としては持ち味を発揮するようなのです。音楽的でない音楽なんて矛盾ですが、実際にこの楽器を弾いてみると納得していただけると思います。

この楽器は抱えて膝の上に置いて弾くのですが、この楽器を机の上などに置いて、横にして楽器に貼られた何本もの弦を指で滑らすようにすると、波打つような響きが生まれます。このワクワクするような響きを聞いただけで、この楽器が欲しくなる人がいます。その姿を見ていて、日本人の琴線に触れるとは、指がただ無心に弦に触れて響かされているところのような気がしてくるのです。その無邪気さのようなものが琴線に触れるというものではないかと思いのです。

楽曲を聴くのではなく、弦が自然のまま響いている状態が、この楽器にはふさわしいのかもしれません。

ただ欲深いので、それだけでは物足りなくなることもあります。そんな時、その先に何があるのかを知りたくなるのです。音楽であり音楽でないものの中間にある何かを、いつかライアーで聞けたらと願っています。