2024年9月6日
先日友人の誕生日の席に招かれて、そこで何人かの音楽家と話をする機会がありました。そこで久しぶりに、私にとって西洋音楽って何なのですかと聞かれました。ずっと前にはよく聞かれたことで、特に日本人がたくさんヨーロッパに音楽の勉強をしに来ている時などは頻繁に聞かれたものでした。
久しぶりに改めて聞かれて、特に準備をしていなかったので、とっさに答えるしかなかったのですが、その時思いついたのが西洋の音楽全般と言うよりも、西洋の歌声、特にベルカントと言われている声について何か言えそうだったので言葉にしてみました。
私が常々ベルカントの声に感じているのは、この声がとても乾いていると言うことです。乾燥した乾ききった声と言ったらいいのか、大地に雨が降らずにヒビが入っているような感じを時々することもある声なのです。乾いていると言うより干からびていると言った方がいいかもしれません。
私の言葉に、質問をしたとの本人は少し首をかしげ、ベルカントだけですかと聞き返してきました。西洋の歌い手たちの全部が乾いているということでは無いのですが、概ね朗々と歌う、特に男性の歌手の声にはいつも乾いたものを感じていました。どうしてもっとしっとりとした声が出ないのかと言うのが正直言うと私が常々感じていたことで、その時それを言葉にしたのです。もう少しうまい言い方があるのかもしれないと思いつつもいつも感じている乾いたと言う印象をそのままぶつけてみました。乾いてない声って例えばどういう声ですかと聞かれたので、スレイザークとデラーと言う男性の歌い手の声を例に取りました。
しかしよく考えてみると、この渇いていると言う印象は、ベルカントの声に限らず、もしかしたら私がずっと西洋音楽と言われている音楽に感じていたことかもしれません。私はよくシューベルトの音楽を、西洋音楽の中では異端児だと言うふうに表現していますが、シューベルトの音楽は今までに乾いていると感じたことが一度もありません。例えば彼の歌などを見ると、歌のモチーフになっている詩に水をテーマにしたものが相当数あります。そういう意味で彼の音楽は水と関係が深いと言えるのですが、それはただ偶然ではなく、彼の音楽の持っている方向性が水と言うものに近づこうとしているのかもしれません。実にみずみずしい世界が、シューベルトの音楽の中では展開され随所に聞かれます。
私が若い頃、ヨーロッパの音楽を聴きはじめた頃、シューベルトが好きだと言うと、たいていの人は少し見下したように、バッハベートーベン、ブラームスをまず上げ、彼らを「3大B」と言って、彼らの音楽を聞かなければ西洋音楽はわからないと言われたものでした。しかしこの3人は私の耳にはとても乾いた音楽に聞こえます。シューベルト以外に潤いを感じる音楽はというとヘンデルとモーツァルトです。この2人もある程度は潤いと言うものを音楽の中に感じ取っていたのだと思います。ヘンデルはバッハと同じ年に生まれ、しかも相当近いところに生まれ、人生半ばにしてイギリスにわたってイギリスに帰化するのですが、水の国というか島国で水に囲まれているイギリスに、何か大きな運命的なものを感じたのかもしれません。
どこに音楽が乾いている、声が乾いていると言う印象を持つのかと聞かれると、うまく答えられないのですが、ある声楽の人と声について話をしていたときに、声と言うのは、体の中の粘液、リンパ腺のような水の要素をももっと音にしなければダメだと言う言い方をしていたのが今思い返すと、私が感じていることと同じなのかもしれないと言う気がします。
みずみずしい声と言うのは簡単に言うと聞いていて体の中に染み込んでくる声です。乾いた声っていうのは体の外で響いていて、歌唱力で歌っている様に聞こえ、上手だとか下手だとか、そういった評価の対象になりやすいものです。現在の歌い手の中で潤った声を出している人にはまだお目にかかっていません。ある程度潤いのありそうな声と言うのには、出会うことがあっても、しっとりとした声と言うのは、今の時代ではなくなってしまったのかもしれません。
なぜなのか、これは一考に値するものだと思います。
2024年9月5日
霊のことを少し考えてみたいと思います。
霊とは、表題にも書いたようにゼロのことではないかと思っています。
物質の世界から見たら何もないと言うことです。
子どもの頃読んで今でも心に残っている素晴らしい本がひとつあります。ファラデーと言うノーベル物理学賞をもらった著名な物理学者が、あるクリスマスの時期に小学校の子どもたちにお話をしてほしいと頼まれ、その話をまとめて生まれた本です。
ろうそくの不思議について、子どもにもよくわかるように話されているものですが、大人が読んでも感動する素晴らしい内容が込められています。その中で当時とても印象深かかった一節が、ろうそくの光は煤があって、その煤に反射して明るくなっているということでした。もし炎に煤のような不純物がなく、純粋なものだったら、炎は目に見えないということでした。実際にガスバーナーなどで調べてみると、温度が高く燃えているときのガスバーナーの炎は青白く、ほとんど見ることができない程のものです。純粋になればなるほど、見えなくなってしまうと言う不思議に感動していました。ろうそくの燃えている炎の中を、火傷しない程度の速さで指をくぐらせると、指が煤だらけになります。この煤がろうそくの炎を明るくしているたて役者だったのです。
霊というのも物質からすれば、純粋そのものですから、物質の世界からは全く見えないと言うことになるのです。私たちが霊だと言って論議しているものは、結局は物質的なものが霊を反射しているだけなのだと思います。
私の住んでいるドイツは、民族的にとても理屈っぽいところがあり、ドイツの有名な哲学者カントは批判精神に則って優れた哲学者を著しました。何でも、批判的精神で物事を見ようとするわけですが、霊はその批判対象にはならないような気がするのです。まるで糠に釘のような、手ごたえのないことが起こってしまうのです。神学をいくら勉強しても神様は見えてきませんとしたいなぁが言うのと共通しているような気がします。霊に批判の目を向けても、霊の方からは何も返ってこないのです。批判の対象は、あくまでも物質世界の中での話です。
ドイツ語では霊のことをガイストといいます。実はこのガイストという言葉は、お酒のアルコールと同じ言葉で、アルコール100%になったら、もうお酒と言うものではなくなってしまいます。そんなものを飲んだら、人間の喉、食堂、胃袋は立ち所に燃え上がってしまうのではないでしょうか。という事は、仮に100% の霊が地上に降りてきたら、瞬時に燃え尽きるか、揮発して消えてしまうような気がします。そういう意味で言うと、霊はとても手強いものです。
しかし願わくば、この手ごたえのない霊とどこかで接点を持ちたいと思うわけですが、一体どうしたらそれが実現するのでしょう。ここで考えるのは、倫理と言う人間の持つ能力ですが、これは相当力になるのではないかと言うことです。倫理と言うともすつての修身のような堅苦しいものを想像しますが、正しいこと、正義感といったものを押し付けてくるものではなく、本来は柔軟なもので、私たちを縛るようなものでは無いのです。人間の中にそなわっている自発性からのもののような気がします。物質界の常識に囚われている限り、倫理と言うものにも到達することがないわけです。同時に倫理と言う架け橋がなければ霊の世界ともつながらないので、物質は物質の世界の中に閉じ込められたままと言うことになります。
倫理と霊、どちらも在ってないような不確かなものですが、私たちの生きるという行為を、本当は根底から支えているもののような気がします。倫理、霊のどちらを欠いても人間とは彷徨える存在で、本当は不十分なもののように思えるのです。
2024年9月5日
今年六十三歳になる知り合いの女性が急に体調を崩してしまいました。そもそも治療オイリュトミストとして仕事をされていたかたでしたが、膵臓に炎症が起こっていると言うことと、胆石が見つかり、落胆していたのです。胆石の方は胆嚢と石を摘出するという手術を先日受けたところです。膵臓の方は原因がわからないままでいると言うことです。
すでに何人かのお医者さんを尋ねて相談してきたのですが、先日紹介されて尋ねた七十を少し過ぎだお医者さんのことを熱心に話してくれたのがとても印象的でそのことに少し触れてみたいと思います。
長年人智学の医療に病院で携わってきたと言うお医者様ですが、今はじ自宅を解放して、相談を受けるというスタンスで活躍していらっしゃると言うことです。私は実際にお目にかかっていないので、どの様な人なのか、どのような空間でお仕事をされているのか想像するしかないのですが、きっとこじんまりとやっていらっしゃるのだと思います。
患者である私の知り合いの女性が相談に行くと、患者である彼女を見つめ、人生の諸々のことをゆっくりと聞き出したそうです。その女性は病気を抱えお医者さんを訪ねたと言うことでしたが、その場に合わせると患者であり、今病気を持っていると言うことすら忘れてしまってしまったそうです。
今の時代は、もうお医者さんが患者を治すと言う時代ではなくなっていて、お医者さんと言うのは昔とは違って患者さんに寄り添って病気と付き合っていくと言うスタンスを考えていらっしゃるようでした。そして医者が病気を治すのではないのですとはっきりとおっしゃったそうです。病気を治すのは患者さん自身なのです。患者さんに病気を克服する意志があるかどうかと言う点が1番大事なところでお医者さんが与えてくれた薬を飲めば病気が治ると言う、そういう時代は過ぎたのだと言うことのようです。
その話しを聞いて、私自身が自分の再生不良性貧血と言う状況を、当時私をサポートしてくれたお医者さんと一緒に克服してきたことを思い出していました。私自身、病気の間に色々なセラピーを受けましたが、受けたほとんどのセラピーと言う世界が、私を素通りしていくようにしか感じられなかったので、その先生のお話を私の知り合いの女性から聞かされて何とも言えない納得をしてしまったのです。
先生が言う「今の時代」というのがどういう時代を指すのか、先生に直接伺ってみないとわからないとは思うのですが、私自身の体験からすると、今の時代と言うくくりの中にシュタイナーと言う人間が繰り返し言っている「意識魂の時代」と言うものを考えてしまうのです。
意識魂はとてもわかりにくいもので、シュタイナー自身具体的にどういうものかはっきりとは言っていないので、多くの人がそれぞれの解釈をしていますが、私が1番感じているのは意識魂の時代と言うのは、意志が大きな役割を果たしているものだと言うことです。シュタイナーの提唱した教育にあっても、意志が1番重要なポイントになっています。意志と言うのは心理学が1番扱いにくいとしているもので、実態があるにもかかわらず、それを説明しようとすると堂々巡りのようにわからなくなってしまうのです。
意志はもしかすると私たちの中に住む魔法使いのようなものかもしれません。教育的に見れば子どもを育てる力であり、医療的に見れば病気を治す力でもあり。あるのかないのか、よくわからない割には、とても大きな力となって私たちの中で働いているものです。
私の知り合いの女性は、その先生との長い時間にわたる話し合いの末に、なんとなく自分がこれから進むべき道が見えてきたような気がすると、久しぶりに明るい声で電話口で話してくれました。きっと彼女自身の治療オイリュトミーと言う経験を通して、何か直感するものがあって、それと同調して、これからの彼女の身の振り方が見えてきたのかもしれません。