浜松の楽器博物館

2024年11月29日

浜松に住む中学の時の友人を訪ねがてら楽器博物館に足を運びました。

浜松にはヤマハ楽器と河合楽器があるので、ここに楽器博物館があるのは半ば必然の様な感じがします。二つのフロアーにはぎっしりと古今東西の楽器が敷き詰められていました。

楽器というのは、ある時ある文化の中で生まれているのだという事実に感動しながら広い会館を歩きました。生まれるだけではなく、消えてゆくという運命も印象的でした。

打楽器と笛はいつの時代も盛んに演奏されていたようで、その勢いは今日にも受け継がれ至っています。古くは部族をまとめるための祭りの主役だったりもした様です。戦争の時にも大活躍で、太鼓とラッパから成る鼓笛隊は戦場でも欠かすことのできないものでした。鼓笛隊とは比べ物にならない規模のブラスバンド熱は今もますます盛んな様です。

弦楽器も数多く展示されていましたが、それらがどのような役割を文化の中で果たしていたのかは読み解けませんでした。弦がどのように張られ、どのように演奏されたのかは知る由もない訳です。歴史的な弦楽器では、一番知りたいところが欠如しているのはかえすがえす残念でした。ただ演奏法はうかがえて、古い楽器では弦を爪弾いていた様です。その後弓で擦りながら音を出すものに移行し、今日のヴァイオリン族に至っています。その一方で、ピアノが登場します。はじめは弦を引っ掻いていたのがハンマーで叩くものになり今日に至っています。厳密に言うとピアノは打弦楽器ですから、打楽器への先祖返りと見ていいのでしょうか。

弦楽器は、歴史的には擦るヴァイオリン族が主流になりましたが、爪弾くという演奏法はいつも見られ、二十世紀に入ってギターが注目される様になってからは、爪弾く楽器が人気を集めている様です。ハープ、リュート、チターと多彩な世界です。

博物館にはライアーはありませんでした。

私はライアーがどのような位置付けに置かれるものなのかとよく考えます。弦楽器とはいえ、ギターやハープとは違うものだと考えています。

この楽器は、今までの楽器のように、作曲された作品を奏でるためだけにあるのではない様な気がしています。もちろんライアーで弾かれた曲には、そこでしか味わえない、引き込まれるような味があります。

それ以外の可能性はまだ予感程度にしか垣間見ることしかできないのでしょうが、これからが楽しみな楽器の様な気がしてなりません。

 

 

 

今回も多くの方と声をテーマに出会える様です

2024年11月10日

昨日日本に入りました。今回は大阪の関空でした。シュトゥットガルトの自宅ら関空まで、のべで27時間の長旅は慣れても疲れるものです。疲れてはいますが元気です。

これから近畿地方、中部地方の知人友人を訪ね、実家の整理に際し預かっていただいた荷物を整理しながら北海道に飛び札幌で初仕事をして、その後関東地方に向かいます。随分東京での会がなかったので、東京という空気の中で多くの人と声とライアーを通して出会えることがとても楽しみです。

声のことは足掛け二十年やってきたのですが、声というのはあまりにも日常的なもののためか、残念ながら単発でオファーがあるだけで継続することがありませんでした。大きな理由は、私の声へのアプローチが、一般に考えられている発声というジャンルに属さないことにあると考えています。練習して、訓練して上手になるものではないのです。それは人生そのもので、何かの練習をして人生が良くなるものではないのに似ています。人生というのはどんなに頑張っても、所詮未完成で終わるものなのではないのでしょうか。

つまり私の声のアプローチは、声が良くなるということを目標にしていないものんのです。目標にしているのは、相手に伝わるということです。これでもまだ抽象的なのでもっと具体的に言うと、相手を威圧しない声ということで、相手が話し手の声を安心して止められる、そういう声を願っているのです。

私たちは相手に何かを伝えようとしている時、まず第一に内容的なことを考えてしまいますが、実はその時の内容はどんなに素晴らしいものですも、声と言う道具を用いている限り、声が相手に受け入れられることが前提となるはずなのです。私はそこのところに焦点を当てて相手に聞いてもらえる声と言うことを考えました。声が受け入れられればコミュニケーションの第一歩が始まります。しかし、声のところで挫折してしまえば、どんなに内容が素晴らしいものでもそれは相手から拒否されてしまうのです。

声と言うのは、あまりにも当たり前すぎるものなので、それをメンテナンスしてみようと言う事はあまり思いつかないようです。しかし、話の内容よりも、声に魅力があるかどうか、つまり声が受け入れられているかどうかの方が比率としては大きな役割を演じていると思います。

よく耳にする「話し方教室」のようなテクニックとしての話し方は、意外と簡単に思いつくところで、そのために努力する方が多いのですが、実はそうしたテクニックよりももっと深いところにある声の質、つまり声が相手に受け入れられているかどうかは、素通りしてしまうものですが、思っている以上に大きな役割を演じているものなのです。

このこと、今回の声のワークなどを通して皆様と確認できたら嬉しいと思っています。

 

無機質と有機質、文法のいらない言葉

2024年10月27日

以前に文法のことを書いた時に日本語の文法が西洋語のものとは違うことを指摘しておきました。日本語には文法などなく、言葉と言葉を繋げるための規則があるだけだと言いたくなることもあるほどの様なことを言ったと思います。

私たちが学校で習った文章の定義はピリオッドを打って完了でした。ピリオッドを打つまでは一つの内容について発言しているのです。ピリオッドに至るまでに使われるコンマやセミコロンハイフェンなどはその内容を補作するための手段ということなのです。このような文法の法則は基本的に西洋人の思考の写し絵に他なりません。さらに私がよく思うのは西洋語の文法は算数の数式だと言うことです。

 

では日本語の場合はどうなるのでしょう。日本語という言葉にとって文法、文章の規則、あるはそもそも文章と言うのはどの様なものとして捉えられているのでしょうか。

源氏物語には句読点はありません。と言うことは、通例の文法からすると「終わっていない」と言うことです。西洋的に見れば源氏物語は始まりも終わりもないものですから、西洋語の影響を受けた現代人には理解できないものです。「それで書き手の伝えたい内容が読者に伝わるのか」と不思議がるのではないかと思います。

しかし現実にはそれで十分に内容が伝わっているのです。そこには何か別の文章を成り立たせている力が存在していると言うことなのではなのでしょうか。言葉そのものに別の力が備わっていると言うことです。

私がイメージするのは、西洋語は単語が基礎になっていると言うことと、単語は無気質なものでそれを繋げ意味をつくるために必要になったのが文法だと言うことです。

ところが日本語の場合、単語以前のシルベル、つまり「あいうえお」と言われる五十音が大きな存在で、ほとんど西洋語の単語に相当する意味の暗示力を持っているとことを指摘したいと思います。そのことから西洋語の単語のような無機質なのではなく、つまりゴロゴロした石ではないので、文法のような手段を用いる必要がないのではないかと言うことです。またそこから俳句が可能になると言うことです。要約すると、日本語というのは、言葉そのものに西洋語とは比べられない力があると言うことです。文法など必要としていない言葉なのです。

もちろん日本語にも言葉を使う上での規則はありますがその発想は西洋語の文法とは誓ったものの様です。この違いがうまく説明できれば二つの文化の違いの基本的な違いが見えてくるの思っています。