子どもは喋っていても歌っている

2024年8月7日

大雑把にいうと就学以前の子どもの声は特別です。大人の声とは明らかに違う声です。小学校に上がる頃になるとだんだん大人の声に近づいてゆきます。決定的なのは思春期に見られる声変わりです。男の子の声は声帯が伸びることで一オクターブ低くなります。男の子の場合は顕著に見られる変化ですが、女性にも声変わりがあると私は考えています。私の耳にははっきりとそう聞こえます。

子どもの声とは一体どんな物なのでしょうか。何が大人の声と違うのでしょうか。

私の経験から言うと、昔体調を壊していた時に、幼稚園、保育園に通っている子どもたちの声が非常に気持ちよく、いつまでも聞いていたいものでした。もちろん子どもたちが話している内容も、純粋なもので、汚れのない物であることもあったと思いますが、声の質も大きな役割を演じていたと思っています。音程的には高い声、甲高い声ですから、神経に触りそうな気がするのですが、かえって大人の人たちの声が神経に触って聞いていて疲れたのです。子どものそうした声を聞いていると、固まった体がほぐされるようなものを感じていました。気持ちよくほぐしてくれるのです。天然のマッサージです。子どもですからしょっちゅう言い争いや喧嘩のようなとをしているのですが、その声すら気持ちよく聞いていたのです。

きっと子どもの声は体全体から作られているのです。お母さんのおっぱいを飲んでいる赤ちゃんが、お母さんに抱かれながら気持ちよさそうにしているのをみると、足をピクピクさせながら飲んでいのです。口の中だけでなく、体全体で、しかも足の先までおっぱいを味わっているのです。そうした体全体に広がっていた味わう能力がだんだん味覚というものに発展するのでしょうが、そうなると五感ですから頭というのか脳神経というのか、そこのあたりが主になって、体全体で味わうということはなくなってしまいます。

それと同じように子どもの声というのは、就学以前の段階ではまだ体全部が声作りに関与していて、大人のように頭で作った声とはちがう、生命感に溢れているのでしょう。その体全体からの声が当時の私の体に直接に響いたのだと今は思っています。

歌い手の素質のある人の声は、この体全体で作る声が残っている声と言ってみてはどうでしょう。子どものようなと言っては失礼になるのでしょうが、大人になっても体全体で声を作るという能力を維持した人たちなのです。それを持たずに、頭で作ってしまう知的な声になってしまった普通人は、声楽の訓練を受けて、歌の道を歩んでも、技術的に上手に歌うようにはなれても、体全体が響くような豊かな潤いのある声で歌うようにはならないのです。

歌い手になるというのは、いろいろな楽器を演奏する人たちとは違って、先天的な素質がものを言うようです。楽器の演奏は後天的な努力で補えるものが多いのでしょうが、歌い手には努力だけではなれないのです。歌うために生まれたという人たちがいるのです。

歌い手がしなければならないことは、美味しいものを食べて、よく寝ることだとよく言われるのですが、その言い方の中に、童心で素直で屈託なく生きろと言うことが言われているのかもしれません。歌うというのは素晴らしいことなのです。しかも子どもの頃には私たちはみんな歌う存在であるのです。

子どもの声ということで一つ補うと、子どもは歌うように喋れるのです。子どもたちは一生懸命何かを説明しようと、唾を飛ばさんばかりに頑張ることもありますが、その時ですら、大人が知的に説明するのとは違って、まるで歌っているように喋ってくれるのです。

いつかまた人間たちは子どものように体全体で喋れるようになるのでしょうか。ぜひそうなってほしいものです。そうなれば人間の会話に変化が生まれるような気がします。

教育の背景

2024年8月7日

教育はいつも時代を背景に持っているものの様です。

ペスタロッチはフランス革命の時に孤児となった子どもたちを集めて孤児院のようなものを作りそこで子どもたちに教育を施しました。彼の考え方は子どもの個性に見合った教育であり、精神性を養うために倫理的な生き方を示し、人間として生きてゆくための根幹を育成しようとしたのでした。時代背景はフランス革命と言っていいのかもしれません。ペスタロッチの指導を受けたと言われる、幼稚園の創始者フレーベルは産業革命が起こると社会の風潮は労働力を育成する必要の中で、子どもたちを集め、学校で集団生活ができるように子どもを教育する姿に心を痛ませたに違いありません、そこから幼児期を心豊かに育てる必然性を感じたのでしょう。その後の教育は、大雑把と言われてしまうかもしれませんが、いかに社会に役立つかを主眼としたものといってもいいと思います。ペスタロッチやフレーベルが大切にした精神性、倫理性は影を潜めてゆきました。

1919年にシュタイナーが学校を設立します。その時の二週間に及ぶ集中講義、後に教育芸術として3巻の本にまとめられる講義の初めに「この教育は知性や、感性だけでなく倫理をし育てるものなのです」と言葉にしています。

しかし残念なのは、その後、シュタイナー教育は「治療する教育」と言う観点で語られることが多くなるのです。教育は治癒、治癒と結びついて考えられるのです。私はここにやはりある時代背景があるように思えてならないのです。それは、当時心理学者たちの間で、さまざまな歴史的な天才たちをいろいろな病名をあてがって説明する風潮があったのです。優秀な人ほど病んでいるとでも言いたげなものでした。天才イコール病人でした。私の若い頃にはその手の本が随分とはやっていて、大変なブームだったのです。そんな中で基本的に人間はどこか病んでいると考える風潮が蔓延したのでしょう。ますます混沌としてゆく社会状況の中で、心の病が増えていったことも事実です。国家をあげてうつ病対策に取り組んでいます。そうした背景の中で治療という考えが社会に深く定着していったのです。それに伴って大変な種類のセラピーが一つの社会現象になっていきます。そんな中でシャタイナー教育のスローガンに「治癒する教育」が使われたのかもしれません。

私はシュタイナー教育の中心は治癒や治療ではないと考えているものです。創造の意志であり、創造の中の喜びであり、想像によって鍛えられる直感のようなものが教育を支えているもだと考えているのです。倫理性は人間が意志を働かせる中で育まれるのではないかとも考えています。シュタイナー教育は生きる喜びを子どもたちに与えたいと願っているのではないのでしょうか。

オーケストラはバラバラの集まり、そしてマーラーの音楽

2024年7月30日

オーケストラを聞きに行くといつもたくさんの楽器に驚かされます。基本的には弦楽器、管楽器そして打楽器に分類されるのですが、そこからさらに細分化されて色々な楽器が舞台に登場します。

どの楽器を演奏するのかは家庭環境や教育によって決まるところが多いのでしょうが、子どもの頃からやっていた楽器を成人してから別の楽器に変えることも意外と多く、人間が楽器を選んでいるだけでなく、楽器の方からやってくることもあったりします。そんな様子を見ていると楽器の演奏は人生の中の職業選択の様なものと言えるのかもしれないと思ったりします。

楽器は子どもの頃から始めないとものにならないと言うのはほぼ常識的に理解されているものですが、縁がなく楽器との接点を持たずに成人したものの、深いところで楽器を演奏できたらという願いを抱き続けている人は多いものです。しかしヴァイオリン系にしろピアノにしろ、成人してから始めるとなると手の骨が固まってしまっているためなかなか上達しないものです。

私は五十になった時にトロンボーンを始めました。トロンボーンでなくてもよかったのですが、とりあえずは金管楽器が吹いてみたくて人に相談したところ、私の歯並びの悪さからトランペットはだめ、ホルンもダメと言うとでトロンポーンとチューバに絞られました。トロンボーンを吹く人を知っていたこともあってトロンボーンを始めることになりました。この金管楽器は成人してから始めるのに向いているかもしれまん。

私はすでにギターとライアーを弾いていました。この楽器は和音が弾ける弦楽器です。私が切望したのは一音だけで音楽をする楽器でした。一音をどのように作り上げるのかを体験したかったのです。ギターもライアーも一音でメロディーを弾くことはできますが、和音を使わないで一音だけで弾くメロディーは何か物足りないところがあるものです。ところがトロンボーンではメロディーしか吹けないので、メロディーに全力投球します。全身全霊を込めて一音一音を吹くわけですが、その時生まれたメロディーは初めて体験する別格なものでした。一音の素晴らしさに開眼したと言えそうです。

話をオーケストラに戻すと、オーケストラと言うのは全員がそれぞれの一音を持ち寄って組み立てられています。そのことから、基本的にはオーケストラというのはバラバラなものなのです。バラバラな集団なのです。各自が自分の一音を持ち寄ってくるのですから、それだけではまとまることがないものです。演奏会の時に楽団員が登場して、各自が自分の楽器の音出しをするわずかな瞬間があります。この時にオーケストラのバラバラが如実に体験できます。

作曲家が楽譜にしたものを各パートがそれぞれに練習してリハーサルに臨むのですが、そこには指揮者がいてみんなをまとめてゆくことになります。指揮者というのは驚くほど見事にバラバラな楽器の集団をまとめあげます。ただ楽団員は訓練を積んだプロですから、楽譜があればそれぞれがお互いを聞き合いながら一つの作品を作ることはできるのかもしれません。そう言う演奏もありますから可能なものですが、指揮者がいて演奏すると言うのが今では常識になっています。実は指揮者は必要なのかそれとも無用の長物なのかは色々に論議されています。いずれにしろ、指揮者によって同じオーケストラで同じ演目を演奏したものを聞くと、違いが明らかですから、指揮者の存在は大きいと言っていいと思います。このオーケストラのバラバラがまとまって、一つの作品として演奏されるのを聞くと、生き物の誕生を目の当たりにする感じです。

 

グスタフ・マーラーは優れた指揮者でしたから、オーケストラのバラバラをよく心得ていた人でした。その彼が書いた交響曲はというと、オーケストラを知り尽くしているのでオーケストラの真髄が聞けてとても魅力的なものです。彼はそもそもオーケストラが持つバラバラを十分心得た上で、それを極力バラバラのままで一つの音楽作品にまとめ上げるからです。こんな人は今までいなかったのです。整然とまとまった交響曲に慣れている耳には、あまりに特殊なものに聞こえる様です。しかし一度マーラーの「バラバラな統一」といったものに魅了されると、何とも不思議な世界を体験することになります。バラバラと言う存在がこれほど魅力的なものなのかと言う感動です。

実はマーラーの音楽が好んで演奏される様になったのはまだ最近のことで、クラシック音楽の聴衆たちは、なかなか整理整頓された交響曲の枠から抜け出せずにいたからです。こんな説を唱える人がいます。マーラーが好んで聞かれる様になったのは、社会が今までの様に統制されたものではなく、バラバラになって複雑化し、混沌としてきたのと並行していると言うのです。マーラーは現代社会を反映している音楽と言ってもいいのかもしれません。バラバラをバラバラとして肯定するという新しい姿勢が、現代人をほっとさせ惹きつけるのかもしれません。