朝のまどろみ空間の中で
カンガエルってどういうことなのでしょう。
この言葉、随分乱用されています。
きっと便利なものを含んでいるのでしょう。
本当はよく解っていないというのに・・。
人間は考える葦である。
我思う、ゆえにわれあり(私は考える。だから存在している)。
下手な考えも休み休み言え。
今はまだ考えがまとまりません。
よく考えてみるとやっぱりやらない方がいいような気がします。
考え事をしていたので気が付かなかった、ゴメン。
くよくよ考えない方がいいよ。
想念というのは一日に六万回くらい頭の中を去来するらしい。
考えている時のことを思い出してみると、考えるというのは想念がめぐっている訳ではない。
考えるというのは、想念とは一線を隔てている。
考えるというのは、何かと向かいあっている様なところがある。
ただし朝のまどろみの思考はすこし違う。
好みでいうと、私は朝、横になっている時に考えるのが好きだ。
今日はこの朝の思考の様子を書いて見ようと思う。
考えるというのは、朝と昼と夜とでは違う。
横になっている時と、立っている時と、座っている時とでも違う。
座って勉強机に向かっている時だけが考えているのではない。
横になっている時の方がいい考えが浮かぶこともある。
朝、目が覚める。まだ布団の中にいるとき、いろいろなことが頭の中を去来する。
ぼんやりと、想念のように。
朝方の考えは、「明け方見る夢は正夢」に近く、直感的で冴えていて、朝のすがすがしい空気の様な透明感がある。
講演会の日の朝は、この朝のまどろみ、朝の直感的思考が命で、ここでその日話したいことがまとまる。
ぼんやりと、輪郭的に。
同じ様なものなのに、布団から出てしまったら、何かが変わってしまう。
もうさっきの様なまどろみの空間は消えてしまって、別の考える作業が始まっている。
まだ同じくらいぼんやりしているのに、朝のまどろみ思考はいない。
そして雑多な忙しい一日が始まり。
外からの刺激に振り回される。
講演会の日、ホテルに泊まっていると、朝に電話が鳴る。
「今日何時お向かい参りましょうか。お考えください。」
朝食をとる。
「コーヒーになさいますか、紅茶にいたしましょうか。」
新聞に目を通す。記事を考え考え読む。
部屋に帰って着替えながら「今日はどのネクタイが合うかな」とネクタイ選びをする。
いつも三本くらい持ち歩いて、朝、ひと悩みすることにしている。
このひと悩み、朝のまどろみ思考との決別の時である。
夜、布団の中で考える。
何も思いつかない、重く暗い思考だがそこには中心の様なものがある。
夜すこしだけ考えるのはいいことだ。
反省に一番向いている時間帯だ。
しかし考え過ぎて、それで却って頭が冴えてしまい寝られなくなることがおおい。
要注意だ。
夜の思考も面白い。
いつか、辺の機会に書いてみたい。