朝のまどろみ空間の中で

2011年5月4日

カンガエルってどういうことなのでしょう。

この言葉、随分乱用されています。

きっと便利なものを含んでいるのでしょう。

本当はよく解っていないというのに・・。

 

人間は考える葦である。

我思う、ゆえにわれあり(私は考える。だから存在している)。

下手な考えも休み休み言え。

今はまだ考えがまとまりません。

よく考えてみるとやっぱりやらない方がいいような気がします。

考え事をしていたので気が付かなかった、ゴメン。

くよくよ考えない方がいいよ。

 

想念というのは一日に六万回くらい頭の中を去来するらしい。

考えている時のことを思い出してみると、考えるというのは想念がめぐっている訳ではない。

考えるというのは、想念とは一線を隔てている。

考えるというのは、何かと向かいあっている様なところがある。

ただし朝のまどろみの思考はすこし違う。

好みでいうと、私は朝、横になっている時に考えるのが好きだ。

今日はこの朝の思考の様子を書いて見ようと思う。

考えるというのは、朝と昼と夜とでは違う。

横になっている時と、立っている時と、座っている時とでも違う。

座って勉強机に向かっている時だけが考えているのではない。

横になっている時の方がいい考えが浮かぶこともある。

 

朝、目が覚める。まだ布団の中にいるとき、いろいろなことが頭の中を去来する。

ぼんやりと、想念のように。

朝方の考えは、「明け方見る夢は正夢」に近く、直感的で冴えていて、朝のすがすがしい空気の様な透明感がある。

講演会の日の朝は、この朝のまどろみ、朝の直感的思考が命で、ここでその日話したいことがまとまる。

ぼんやりと、輪郭的に。

同じ様なものなのに、布団から出てしまったら、何かが変わってしまう。

もうさっきの様なまどろみの空間は消えてしまって、別の考える作業が始まっている。

まだ同じくらいぼんやりしているのに、朝のまどろみ思考はいない。

そして雑多な忙しい一日が始まり。

外からの刺激に振り回される。

講演会の日、ホテルに泊まっていると、朝に電話が鳴る。

「今日何時お向かい参りましょうか。お考えください。」

朝食をとる。

「コーヒーになさいますか、紅茶にいたしましょうか。」

新聞に目を通す。記事を考え考え読む。

部屋に帰って着替えながら「今日はどのネクタイが合うかな」とネクタイ選びをする。

いつも三本くらい持ち歩いて、朝、ひと悩みすることにしている。

このひと悩み、朝のまどろみ思考との決別の時である。

 

夜、布団の中で考える。

何も思いつかない、重く暗い思考だがそこには中心の様なものがある。

夜すこしだけ考えるのはいいことだ。

反省に一番向いている時間帯だ。

しかし考え過ぎて、それで却って頭が冴えてしまい寝られなくなることがおおい。

要注意だ。

夜の思考も面白い。

いつか、辺の機会に書いてみたい。

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