進化という幻想

2023年1月23日

人間はどんどん進化するものと子どもの頃には教えられていたような気がします。 特にダーウィンの進化論は今では評価が当時と随分違っています。私たちが学校で習った進化論は、いつまでも進化し続けるものだと言っていたように思います。

大人になってからは、それも随分経ってからのことですが、このように考えることは無くなりました。きっかけは、ある時ふと「私たちの文明にしろ文化にしろある意味進化の頂点を極めたと言えるのではないのだろうか」と思ったからです。私たちは無我夢中でやる時期をすぎ、やっていることをやたらと説明するようになったことが原因でした。

 

進化というのは人間に置き換えると成長というシステムではないかと思います。前向きに、無我夢中で、脇目も振らずに進んでゆく姿は成長期に限られ見られるものです。どんどん前向きに進んでゆくので、周りの景色はどんどん後ろ送りになります。いろいろなことがどんどんできるようになってゆくわけです。いつまでも成長し続けるワクワク感があります。

頂点に達すると、ひとまず成長は終わります。無我夢中に前向きに進んで能力を獲得していた成長でしたが、ストップがかかるのです。そして今度は別の成長段階に入ります。前に進むのではなく、ストップがかかった後はもと来たところまで帰ってゆくと考えてはどうでしょうか。しかも「後ろ向き」にです。同じ景色も前向きに進んでいる時に見たものと後ろ向きに元に戻っている時に見るのでは違うものです。

元きたところに戻るというのは、後退でも退化でもないのです。別の成長、進化と言えるものです。そこには反省というものが加わります。その反省は見方を変えれば成長なのです。反省することで人間は内面的に膨らみを獲得します。やはり新しい能力を獲得しているのです。ただ内面的にです。別の言い方をすれば逆戻りしている時人間は反省しながら倫理的な存在になっているのです。

人間は前向きに能力を獲得してゆく成長と、自分を振り返る内面の成長との二つを持っているのです。

ここで倫理という考え方に触れたわけですが、普遍人間学の冒頭でシユタイナーが言ったことを思い出すと、「私たちが目指そうとしている教育は倫理を目覚めさせるものだ」と言うものです。

教育、成長という課題と取り組んでいると、外に向かう能力の獲得ばかりが気になってしまいますが、倫理も能力の一つで、その倫理の獲得も教育の中で実現しなければならないことだとシユタイナーは考えたていたのだと思います。内面化の教育ということでしょうか。人間の熟成ということでもあるようです。

 

まだ言足りていない気がするのですが、今日はここまでにしておきます。

 

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