詩の言葉
詩に使われる言葉は日常の言葉といくぶん違い、耳慣れないものです。
日常生活で意味が通じないということはないのですが、何かが違います。生活感を伴わないといって仕舞えばそうなのですが、私にはそのずれがたまらなく面白いのです。
雨戸を開けたら深い霧で外が見ないような時に「霞ふかし」などという人がいたらどうでしょうか。何かずれていると周囲は思うはずです。「霧ふかし」は詩を詠む時にしか使われない、詩特有の言い回しと決められてしまっているからです。言い方を変えれば奥ゆかしい響きを持っていますが、日常空間からは幾分かは切り離されてしまいます。
言葉には日常語で使われる言葉と、日常的でない言葉があるということです。もっと言うと用を足す言葉と、存在を満たす言葉と言ってもいいのかもしれません。
日常生活に追われる現代社会では日常語がどうしても主体となるので、詩の言葉のような用を足す言葉は使われなくなりますから、詩の言葉はますます耳慣れない言葉ということになってしまいます。
しかし詩の言葉は、魂が必要としている力を宿しています。古くは言霊と言っていたものです。今日的には言葉のエネルギー、パワーでしょうか。
例えば食べ物が栄養学的に計算されて、生きるに十分なものだけを食べたらどういう食生活になるかを考えてみてください。食事というのは栄養だけからでは割り出せないように、言語生活も用を足すだけの言葉だけを並べてしゃべっていたのでは、魂的に栄養失調になってしまうに違いありません。
余談ですが自転車に乗っているときにぶつぶつと独り言をいっている人がいるとします。周囲はその人を病気ではないかという見方をします。しかしもし、その人が歌いながら自転車に乗っていたとしたら誰も不信感を抱かないはずです。なぜなのでしょうか。言葉でぶつぶつ独り言を言うというのは自分の世界に閉じこもっているのに対し、歌は自分を超えたものと関わっているからだと私は考えています。歌っている時、人間は自分を超えて、自分以上のものと共にあるのです。そして歌うときの言葉は大抵は詩の言葉に近いものです。
定型詩から自由詩になって、歌の歌詞が日常語を使うようになった気がします。特に最近の歌の歌詞は日常的な言葉が主流になっているようです。かつての島崎藤村の「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄する ヤシの実一つ」などは今日では時代遅れと感じられるのでしょうが、定型詩には詩的な言い回しがあり、更に行間を感じことを鑑みると、定型詩の言葉は日常語では言い尽くせない深みがあるように感じます。日常語からは意味を重んじるあまり行間を読むという習慣がなくなってしまったのです。