ネット時代の新条件反射と将来のテレパシー
今日はテーマが難しいのでまとまらない話になりそうです。
コミュニケーションが大きく変化する中いくつかの点が気になっています。初めに結論をいうと、コミュニケーションが条件反射のようになりつつあるのではないかということです。人間は感情を持っているのに、条件反射になって仕舞えば感情は必要なくなってしまいます。感情のない人間はなんなのでしょうか。もしかしたら機械に限りなく近いものかもしれません。
コミュニケーションは社会生活の基本で、人間同士の情報交換のことを指すものです。ですから時代時代でコミュニケーションの道具が違っていたので異なっているものです。
今日のコミュニケーションの手段を見てみるとかつてのコミュニケーションとは全く違います。違うと言う言葉では言い尽くせないほどの変化がそこには見られます。手紙、それも飛脚が運んだ手紙と今日のメールでは違いを説明するという行為が意味をなさないような気がします。
手紙とメールでは気持ちの発信の仕方よりも、返事を待つという行為に決定的な違いがあります。手紙の返事は首を長くして待つのに比べ、メールの返事は首が伸びる暇もないほどで早ければ二、三秒後にはもう届いているという具合です。私はこの待ち時間が二、三秒というのが、条件反射に似ていると思わずにはいられないのです。
これは決して安穏としてはいられない深刻な問題ではないかと思うのですが・・・
私は最も進んだコミュニケーションは以心伝心かテレパシーによるものだと思っています。これはメールどころの速さではありません。発信したと同時に返事が来てしまうのですから、条件反射とは決定的に違います。条件反射は物質空間、物質時間の中でのことですから、霊的なテレパシーとは次元が違います。
今の時点では多くの人が言語に頼っていますが将来は言葉はなくなるでしょうから、テレパシーの時代が来ます。しかしテレパシーは将来のものかと思いきや、かつて存在していたものでもあります。それが言語によるコミュニケーションという時代を経て再び将来に現れると言うもののようで、不思議な伝達手段です。
オーストラリアの原住民、アポリジニと生活を共にしその時の様子をアメリカの女性が報告しているものを読んだのですが、それによると彼らはほとんど喋らないようで、そのことを彼らに問うと、言葉にしなくても分かるからなのだそうです。ではなぜ声があるのかと聞くと、祈るためと、歌うためという答えが返ってきたそうです。
言葉の役割は説明ですが、テレパシーは説明ではなく直感です。魂の中の想いが膨らんで来そうです。私も早く言葉を卒業してテレパシーの世界で生きたいものです。