子どもの嘘と大人の嘘
子どもが嘘をつき始めると、良くも悪くも成長を感じます。我が子も大人の仲間入りをしたという感じでもあり、むしろ微笑ましいものです。
子どもの嘘は、子どもが小さければ小さいほど悪意が感じられないため無邪気で可愛いもので、大人の嘘のもつ暴力的なものとは一味違います。
その違いを考えてみようと思います。
大人の嘘は目的ではなく手段なのです。嘘をつくことで目的を手に入れるので、嘘そのものよりも目的が先にあってそのための手段に嘘が使われると見ています。そこでの嘘の典型的なのは詐欺です。今社会を騒がせているオレオレ詐欺は嘘が目的ではなく、その先のお金が目的です。
子どもの嘘は、嘘をつくことが目的ですから嘘がつけたら仕事は完了します。嘘が目的であるうちは、嘘は人を傷つけるものではなく、笑い話の一興に過ぎないのです。
それでもなぜ嘘があるのかという疑問が残ります。
人間社会は嘘を公認している向きも感じられます。どうしてもそう言いたくなるのです。今日の社会を作っている基本には嘘が前提されている様にも感じます。そもそも組織というものが嘘に近いものに見えてきます。ということは私たちは、いつからかわかりませんが、嘘の渦の中に巻き込まれてしまった様なのです。
しかし嘘には、子どもの嘘のような手段でない無邪気なものもあります。嘘から出た誠という言い方もありますし、嘘も方便とも言います。これらは全て善意の嘘です。嘘という魔法をトランプ遊びのジョーカーのように楽しんでいるわけで、この状態のままでいられれば社会は嘘で豊かになるのでしょうが、そうは問屋が卸しません。悪意による嘘になると、そこでの嘘は毒を持ち社会破壊のための格好の道具ということになってしまいます。
心の持ちようで嘘というのは善でも悪でもなく、使い方次第でどちらにも転ぶもののようです。よく似ているのはお金です。お金と嘘は同じような道から人類に生まれたものなのかもしれません。