無私になるための道のり
無私になろうとするのも実はこだわりです。ですから無私になるというのを目的にして頑張ると落とし穴に落ちてしまいます。かえって無私の向こうには何があるのだろうとのんびり構えた方が実りがあるように思うのです。
私と言うのは厄介なものです。以前にシュタイナーで読んで驚いたのは、視神経が一番集まっているところが盲点というところだということでした。視神経で見ていると思いきや、視神経が集まると見るという行為から離れてしまうという、自然界の不思議というのか悪戯というのか醍醐味でした。
私というのも同じようなもので、「私、私」と言っていると一番私から遠ざかってしまい、無私どころの話ではなくなつてしまいます。
私というのは主張しないと見えない存在だと思っている人がいるようですが、主張している時というのは基本的には自分から外に出ていって、外とぶつかっているので、手応えがあるのでしょうが、私そのものには出会っていないようです。
私が主張から離れると、外との同化が始まるようて゜私は消えてしまいます。これは無私なのでしょうか。
今は西洋的に考えることが世界標準ですから、主張的な私が全盛ですが、これは流行の問題でいつかまた相手と自分が一つになってで初めて私だと言いたくなる時代が来ると思っています。
まずは私から解放されたらいいのではないかと思います。ところが現代は自意識が異常に強い時代ですから、私から解放されるというのはどの様にしたら実現できるのでしょう。若い頃には、旅に出ればそんな感じになるのかと思ったことがありました。それで旅に出たのですが、いつもの私がくっついて来るので、旅はダメだと思いました。旅の最中は、私から解放されているなんて実感とは程遠いい物でした。
ぼんやりと空を眺めることがあります。雲一つ無い快晴の空は真っ青で、恐いほど引き込まれます。無私というのはあの空の青の深さというか、底なしの青の深さの中を漂っているものというのか、それとも青そのものと言ったらいいのか。無私は何も書いていない白い紙のような気もしてきます。真っ白なキャンバスには無限を感じます。無限と無私とは表裏一体のような気がしてきました。