切り花の命とイメージの中で死んだ花
2023年4月24日
ブロンズで作品を作って生計を立てている友人が、誕生日だったので花を持って行ったら、「花か」とため息をつかれてしまって、
「嫌いなのか」と聞いたら、
「まあな」という返事で
「どこにでもあるチューリップじゃないぞ」というと
「わかってるよ、綺麗な花だとは思うけど花瓶に生けて、枯れて行くのを毎日見ているのは悲しいよ」というので
「変なことを言うなよ」と返すと、
「でもそうじゃないか」ということで返す言葉もなく、言われてみれば確かにその通りなので、枯れゆく姿の鑑賞か、そうかもしれないなあーと思うようになった次第です。でも持って来た花は持って帰るきがしないので
「置いていっていいか」と聞くと
「そのままでいい」とそっけない返事で、なんとも気の抜けた誕生祝いになってしまいました。
「俺はな、死んだものを生き返られているような感じで仕事をしているので、切花とは別の運命を選んでいる。
「死んだものってなんだ」と聞くと
「生きているものをイメージの中で殺すだろう、それを俺の世界観で、俺だけの美観で生き返られるわけだよ」
「イメージで殺したものは蘇るのか」
「蘇られるんだよ、言葉にすれば強引のようだが、それが芸術だよ、霊的かな」
「客観的には無理だよ、霊的だよな」
「もちろん。芸術なんて全くの主観だ。徹底的に主観の中だけの仕事さ。ところが俺の主観を認めてくれる奴がいるもんなのさ。そうすると主観だけでなく、客観も超えてしまうんだよ。いい値段がついたりする。ありがたいことにさ」
芸術家はそんな主観を思いっきり生きているのかと思うと、今度は芸術家というのに生まれてもいいかなと思ってしまった。
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仲正雄ブログ