失われた時を求めて

2023年4月28日

この本は随分前から一度は読んでみたいと思いまずなら読めていない本です。いや他にもたくさんそういう本があるので、そのうちの一つです。

マルセル・プルーストという人の超長編小説です。

知り合いの弁護士さんがこの本を繰り返し読んでいる人で、二十年前に彼と知り合って、その時に勧められてから、ずっと気になっていました。

彼の個人的な資質なのか、それども弁護士という仕事とこの本を何度も読むことにがどこかで繋がっているのかは彼から直生聞くことができないまま、彼は他界してしまいましたが、一度読み始めた時に、文体が彼そのままのような気がしたことを思い出します。読んでいて、文体の中にホッとしたものを感じていたのかもしれません。

実に悠長な文体で、しかも時勢をとても悠長に描写しているので、今日のようにイヴェント文化、ドラマチックなものに浸ってしまった人間には、この落ち着き、この長さはイライラの原因になるかもしれません。

現代的傾向は、時代とか、そこに流れている時間とともに流れて生きようという気はまるっきりないようです。すぐに身近な情報で即断してしまって、それで分かったつもりになっているようで、この在り方は権力者的にはすごく操作しやすい民衆というもので、怖いです。

プルーストの視点は、描写している物事に寄り添っているというもので、それらをコメントすることはなく、懐の深い慈しむような眼差しと語り口ですから、それがある意味で今日失われてしまったもののようです。「失われた時」とはそういうゆとりのようなもののことを言っているのでしょう。

こんなものを今更誰が読むのかという人もいるでしょうが、今日のただ用を足すだけの姿勢、考え方、言葉遣いは結局単なる流行り現象だという気がするので、今だからこそもう一度こういう時間の流れに触れることが必要なのかもしれないと思うのです。わずかな時間を見つけて、ゆったりとお茶飲むことが出来るはずなのですが、立ち飲みコーヒー、立ち食いそば的なものが社会を支配してしまいました。それを否定するつまりはありません。そうした流れが現実の今の社会を支えているのですから。それでも、1日に数分でもいいから、そうした慌ただしさから身を引いて、そこに日常とは別の時間が流れていることを感じられたら、何かが変わると思います。社会は、外から枠を作ろうとする力で作られるものでもありますが、そこに生きている一人ひとりが変えてゆくこともできるものだと思います。

その時間は誰かから与えられた時間ではなく、自分で作る時間です。時間は作れるのです。

 

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