具体的な一日 - 日の出から始まる一日
今朝、早く目が覚めて外を見ると東の空がうっすらと明るくなりかけていました。まだ薄暗い空を見上げるとそこには三日月が、そして地平線と月の間に空けの明星、金星がうるうると輝いていました。
「今日は写真を撮ろう」と温かく着込んでカメラを手に、雪の積もる庭に出て、日の出が近づくにつれて変化して行く東の空を見つめていました。
朝焼けも夕焼けも驚きに似た感動があります。どちらも生きものだからでしょう。
この空と光と雲が作り出す饗宴の中でよく宇宙の中に居る自分を感じます。地球が、太陽が宇宙空間の中に存在していると強く感じるのです。そして時間の中に居る自分もです
今朝の東の空は、刻々と、日の出に近づくにつれて色が刻々と変化して行きました。雲の位置も都合よく、日の出の直前には下から照らされた紫が生まれる予感がしました。
朝焼けも夕焼けも寿命は五分程です(長い時でも10分を超すことはありません)。凝縮したこの五分の中で今日は音楽の様なものを聞いていました。ゆっくりと深まって行く感じでした。今日は音楽でしたが、日によっては空からの言葉を聞くこともあります。お能の謡の様な言葉遣いです。
いずれにしても充実した五分です。
朝焼けに限らず一日を日の出で始めるというのは、目覚ましで設定した時間に起きるのとはずいぶん違います。一日を日の出で始めた人は一日がとても具体的です。具体的という言い方は大袈裟かもしれません。一日はどんなに過ごしても24時間と決まっているからです。しかしそれは外から規定されている一日です。一般的なものです。
時計の一日ではなく、時間が流れる一日があるのです。そう見ると一日は生きものです。
日の出を見ると一日が具体的なのはきっぱりとした始まりがあるからです。けじめというよりも、これから始まる一日から自分に何かが託されたそんな気分です。太陽に向かって頭を深々と下げて、「確かにお預かりいたしました」と心の中でお伝えします。
日の出を拝む習慣は世界中にあるのかもしれませんが、日本にも古くから伝わるものでしょう。外来のものというより日本古来のものだと思います。日本人の中には太陽が地平線から昇って来る姿を、ありがたいものとして崇める感性が備わっています。それはただ日の出を拝むというイヴェントとは違います。
元旦の、初日の出をとてもありがたいものとするのも基本的には同じ様な感性からでしょう。
これは時間感覚と言っていいものです。生きていることを感じる感覚です。「今日一日を確かにお預かりいたしました」、「今年一年をお預かりいたしました」という、託されたものを生きるという心の
喜びです。これが無くなってしまうと人間は時計の奴隷になってしまう様な気がします。