動きとしての言葉

2023年5月4日

私たちが生きている証は動きです。動けることが生きていることそのものです。

その動き、つまり運動がどこから来るのかというと、素人的に神経と筋肉と言っておきます。

 

そうした動きを見ていると、私たちの動きは実に多種多様です。一番目につくのはスポーツの動きでしょう。この動きを見ていると一見激しそうに見えて実際は繊細なものだと気付かされます。あるいは手品師の動きとか、字を書くときの動きなどはほとんど目立たない、目に見えないほどの静かな繊細さがあります。

 

動物と人間の動きの違いも興味深い点です。

短距離は動物の方がはるかに早く、百メートル走は相当の大差で動物に軍配が上がります。しかし動物の動きはほとんどが本能的なものです。その点人間の動きは知的な能力に伴って多彩で繊細になっていると言っていいようです。

 

今日は「言葉を話す」というところに焦点を当ててみます。

まず言葉を話せるのは人間だけです。動物にも知性が備わっていることは知られていますが、例えばイルカにどんなに言葉を教えても、限界があります。暗示的にわかるような気がするまでです。人間のように言葉を発音するところには行きません。イルカの動きそのものが本能に依存しているからだと想像します。人間の言葉はその点「知性の産物」と見ることができます。人間の動き、運動能力が、単に本能的なところから知的なものに変わったところで、言葉を発することが可能になったのでした。

言葉を発するのに必要なのは声帯です。声帯の動きが最後の決め手です。

人間の場合だけ男の声、女の声という区別があります。最近は男女を分けると差別と言って叱られますが、男の声、女の声はそうした差別とは関係なく歴然と存在しているものです。ちなみに犬はオスメスの区別がほとんどないのです。ところが、人間の場合は思春期を境にそれ以降は変声して、男と女の声は一オクターブの開きが生じます。男の声帯に大きな変化が起こるからです。

この声帯があることで人間は言葉を音声化します。これが出来るのが人間です。そして人間の中で言葉を発する時の声帯の筋肉の動きが、人間の意識にコントロールされた随意筋として一番繊細で細やかな動きをしているのです。つまり言葉は知性によって最も繊細な動きから生まれているということなのです。動物はここの発達が人間とは全く違っているのです。

 

言葉を動きと捉えることは普通はしません。ところが、最近は筋肉の動きを電気的に測定できます。その技術を使って、話している人間の筋肉の動きと、それを聞いている相手の筋肉の動きを測定することができます。すると、二人の間に酷似する動きが観察できるのです。そのことから言えるのは、言葉を聞いている時というのは、ただ音声的に聞いているというだけでなく、話をしている人間と同じ動きをしながら相手の言葉を聞いているということです。極端に言うと、話し手に同化しているのです。言葉の体験とは、そうすると動きの体験でもあったのです。

言葉は書き言葉としても存在しています。言葉を読むときは黙読がほとんどですが、その時ですら、声帯は言葉を発する時のような動きを見せているのです。

 

言葉というのはこうしてみると徹頭徹尾動きによって成立しているものだということになります。

 

 

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