言葉に意味があるから誤解がある
言葉には意味があります。これで安心していると危険です。意味は理解されるものですが、意味があるので誤解もあるからです。
一つしかないと思っている意味ですが、自分以外の人は別の解釈している場合があります。一つの言葉で、意味も一つのはずなのに、誤解が生まれるのです。どう言うことなのでしょうか。多分、意味というのは人によって解釈が異なるからです。「いい天気ですね」という人がいて空を見上げたら雲がかかっていたとすると、「必ずしもいい天気とは言えない」と考えるようなものです。
学問の大切な条件が、意味を厳密にすることです。論文などを書く時にはできる限り曖昧さを避けるような文章にしなければなりません。そのせいなのかどうか、論文というのは実に読みにくく、それだけでなくつまらない文章です。決まった言い方があるようなところがあり、それにしがって書かないと、博士論文などは審査が通らずに博士号がもらえなかったりします。
しかし文章で正確さを競うとどうなるのでしょうか。
日本語の面白さは語尾です。終助詞と言われるもので、だった一つの言葉なのに、それが有るか無いかて伝えようとする意志に変化が生まれるのです。
私も行きたかった、わたしもいきたかったの、私も行きたかったのに、はそれぞれにほぼ同じことを言っているのですが、微妙に違います。
言葉は思考のための道具ではあるのですがそれだけでなく感情が入り込んできます。さらに意志もです。思考を正確に整理するだけでも大変なのに、感情も正確でなければならないとなると、不可能です。意志はもっと不可能です。結局私たちは曖昧という海の中を泳いでいるということです。海の水の上に線が引けないように、感情も意志も線をかいた途端に消えてしまいます。感情と意志はそれほど不確かなのです。
言葉がある限り誤解が付き纏います。どは誤解を避けめためにはどうしたらいいのでしょうか。一番の方法は喋らないことです。しやべれば必ず誤解が生じます。何人かの人が環境のことを勉強しようと集まり、会を設立して活動を始めました。ところが始まってしばらくして、「あなたの考えている環境問題と私の環境への意識はどうやら違うようです」と会は決裂してしまいました。
しかし初めっから考えは違うものという前提で会を始めていれば、解散することはなかったはずです。危ないのは、みんな同じに考えていると思い込んでしまうことです。違ってもいいんだ、違うのがむしろ当たり前なのだと初めっから決めていれば、意見が違っても、それを楽しめばいいだけの話だと思います。