挨拶の意味

2023年5月17日

思春期の頃に人間の挨拶ほど意味ののないものはないと豪語していた時期がありました。私の父も母も丁寧にあいさを交わす人でしたから、反発の意味もあったのかもしれません。

今までにも挨拶のことは書いていますが、齢を重ねたので、少し違う感想があるので書いてみます。

 

意味があるかないかで言ったら、今でも思春期の若僧が豪語していたように、挨拶の言葉には意味がないと考えています。「ご無沙汰してております」と言ってもそんな深く考えているのではなく、ただそういうものだから言っているだけです。

先日時々あっている友人に「どう元気」と改めて聞かれ、「多分元気だとおもう」とちょっと本音で答えたら「なんだよその多分は」と言葉を返されました。挨拶なんて所詮習慣的にするものなので、そこでの返事も習慣的なものでいいのです。誰も本気で私の健康状態など気にかけているわけではないのです。「最近便秘気味でね」なんて答えたら返ってびっくりされてしまいます。だからその時も「まあね」で十分だったのです。

 

電報より短いのが挨拶で、しかもその挨拶は無駄であるが故に、大きな意味があるように思えるのです。齢を重ねたおかげです。

国によって挨拶の形は大きく異なります。ドイツでは握手が主流ですが、フランスではほっぺに右・左・右と三回キスをします。アジア、中東、アフリカと巡ると色々な挨拶に出会いそうです。そしてそのどれもが、ほとんど意味を成していないのですから、人間というのは無駄なことに大きな意味を見つける天才なのです。

ドイツで講演をする時、必ず儀式めいた言葉を前置きにして話し出します。「親愛なるみなさん」とか「今日ここにいらっしゃった紳士・淑女(ドイツでは淑女・紳士の順です)のみなさん」という具合で、よく翻訳でこれをそのまま直訳しているのを見かけますが、日本語で読むと背筋がゾッとします。日本で講演をする時には「こんにちは」だけで、それもすぐに話し出すのを避けるために言っていました。

しかしよくよく考えると、この挨拶は生きる上での潤滑油のような働きはしているようです。挨拶がなかったら、ギスギスした人間関係、コミュニケーションの場ができて、窮屈なものになってしまいまそうです。

時々挨拶のできない人に出会うことがあります。私とあいさつをしたくないからと個人的な理由であいさをしないのではなく、他の人にも言葉がけをしている様子がないのです。

意味がないとあいさを貶しているように聞こえるかもしれませんが、実は挨拶万歳というのが私の本音です。あいさつをするとなんだか空気の流れが変わります。今ここにいるという証でもあります。

 

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