オタク族
オタクという呼び名はここ五十年くらいの新しいものですが、中身は古くから存在している人種のことです。オタクの社会的背景が、引きこもりというものに結びつくので、現代っぽく、現代の社会問題のような顔をしているだけです。オタクの本質的な部分は、その昔専門バカと言われていたものと大差がないと思います。
明治に始まった学校制度から今日までの教育の姿を見ていると、その社会的背景に違いは見られるものの、一貫して共通したものがあるようで、オタク製造に励んで来たのではないかと思いたくなるほどです。基本は成績優秀な子どもを作ること。社会に役立つ様なという口当たりのいいオブラートはかかっていても優秀な専門家を作ることが主眼なので、結局はオタクの製造に変わりはないのだと思います。社会に貢献しているオタクです。しかしあくまでオタクですから、人間としては一面的でしかないため、そう言う人たちが指導的立場に立つと社会全体も一面的な様相を呈しているの様です。現代社会そのものがオタクが基本になっているのです。
優秀な人材という考え方は、明治の頃に、西洋に追いつけ追い越せの勢いが作ったものなのでしょうが、それは国家の勢いだったことは言うまでもないのですが、どんな意味を持っていたのか考え直してみてもいい時期に来ているのでないかと思うのです。さらに戦後復興の勢いも優秀な人材を作ることで生まれました。日本は優秀な民族だと誇っていいのですが、優秀な人材を育てる教育制度を見逃してはいけないのではないかと思います。優秀な社会は、教育の持つ一面を巧みに使って生み出された一つの現象で、令和の今でも当時のことを思い出してノスタルジックに語る人が絶えないのは、優秀であることへの憧れが強い民族だかではないかと思います。
もし教育改革などを目論んでいる人がいれば、ぜひオタク系教育から外れたものを考えていただきたいと思います。いっときゆとり教育が注目を浴びましたが、社会からの批判が強くすぐになくなってしまいました。私はドイツにいるため、具体的にどのようなことが起こっていたのかについては言えないのですが、アイデアとしては間違ったものではない様に感じています。非オタク系ってどんなものなのかを考えるときにいつも近くに感じるものです。ただ突然生まれたもののようで、もう少し時間をかけて脱オタクに取り組んでゆけば、何かが見えてくるのではないかと思います。
今まで例がないので、きっと想像がつかないのではないかと思うのですが、優秀な専門バカを作るのではなく、本物のバカを作ることなのかもしれません。ここで言うバカは愚かとか劣っていると言うことではなく、賢く抜け目のないものを持たない人間のことです。懐の広い人で、その懐で考えている様な人を作ることです。
IAの登場は不安材料が多い様です。ある職種はIAに取って代わられてしまう様な言い方が社会を不安にしています。まず取って代わられそうなのが、システムの中に隠れたオタク系の、それこそ優秀な人たち、公務員、大学教授、学校の先生、医者、弁護士、クラシック音楽家のような人たちかもしれません。IAの登場は、不謹慎かもしれませんが、優秀な専門オタクを駆除するために必要なことなのかもしれないなんて考えてしまいます。