二つのものが両立する アンビヴァレンツ
今年一つ予定しているドイツでのセミナーに、日本文化と日本の自我と日本的思考を扱うものがあります。そのために、時々ですが準備をしています。
時々というのは、それに見合った本を読めば準備なるかというとそう言うものではなく、他の人の講演会などに行って話しを聞けば参考になる物があるかというと、そう言うものでもなくという意味です。そう言うことでは準備にならないから、敢えて「時々」といったまでです。
時々直観が降りて来るからでもあります。
今日本がなんとなく冷えていることはよく指摘されていて、それではいけないと動いている人たちがいます。東北の震災、福島のことがきっかけになって、今までの日本から別の日本を作りださなければならないという思いは、このところ私も随分心に抱えているものです。
すこし大袈裟な言い方ですが、ここ二十年の間は、シュタイナーの考え方をただを学ぶだけでなく、それを生かして日本を変えて行けたらと願っていました。
それと関連していると思うのですが、日本は自分の文化についての宣伝がとても下手です。いままではヨーロッパ、アメリカからの分を輸入していればよかったのでしょう。しかしもうそう言う時代は過ぎているはずです。日本が自分の文化に自信を持つ時期に来ていると私は思っています。汝自身を知るということでもあると思っています。自分たちがいいものを持っていて、それをもっと多くの人に知らせるべきだということででもあります。
私は俳句という文化に今焦点を合わせています。
俳句はただ短いだけのものではなく、そこに日本の文化がとても凝縮した形で集約されています。日本語でしか詠めない世界があります。もちろんそれを外国文化の中で示すのはとても難しいことです。日本のことを知っているだけでは外国の人に伝えられないですし、外国の文化、特に言葉を充分消化したうえで初めて仕事になります。つまり、外国文化と俳句の接点を明確にできないと、只俳句を紹介したというところで終ってしまいます。それで終えたくないのです。俳句を知ったことで、外国の人が自分が変わったと言える様なものを伝えたいのです。
日本に何故俳句が生まれたのか。日本人の中にある、しかもとても深いところにある「何か」です。これがわたしの求めているところです。この部分は外国文化、外国語に翻訳することはできないかもしれません。
先日シュタイナーの「魂の暦」の翻訳を幾つか手にする機会がありました。幾つかは大手の書店から出版されていますが、それ以外にも何人かの方が個人的に、あるサークルのために翻訳した物などあり、それらを何の気なしに読んでいました。そこでふと、俳句のことを思いだしました。俳句の翻訳ということです。俳句を違う言葉に、特に日本語とかけ離れた言葉に翻訳するとこんな風になるのかというです。
お互いに、どうしても訳せないものがある。
これが私がその時持った感覚です。言葉は辞書を使って移行させられますが、そこで何かが振り落とされてしまいます。その「何か」が実は大きな力になっているとはっきりと気が付いたのです。
体の中にあるバクテリアのことが脳裏をかすめました。これからの外国語の辞書にはこのバクテリア的なものが示されなければ駄目だということでした。
バクテリアがあって初めて人体は外から入って来るものを消化できるのです。食べ物もそうですが、文化もそうに違いありません。このバクテリア、実は、有害でもあり有益でもあるのです。見方によっていろいろ言えるものです。しかもとぢらもいい分を持っています。
私は今までのドイツ生活から、二つの文化の両方がそれぞれに正しいことを知っています。その両方の正しさを両立させながら、どちらもが正しいという視点がほしいのです。そう言う場所に、一度は立ってみたいと願っています。
今年はそんなことを始める年になりそうです。