シュタイナー問わず語り
講演会の講師紹介の時に「シュタイナーをわかりやすく語り人」と紹介されるのですが、私としては別段易しくシュタイナーを語っているつもりはないのですが、いつしかそう言われることに慣れてしまいました。
しかしへそ曲がりの私の脳裏に浮かぶのは「シュタイナーをわかりやすくしたらシュタイナーではなくなってしまうのでは」という強迫感で、ハラハラしながら紹介を聞いています。「わかりにくいからこそシュタイナー」という常識を崩してはシュタイナーのイメージが壊されるような気がしているのです。
ここ10年の間に顕著になったのは、シュタイナーの翻訳が解りにくいのでなんとかならないでしょうかという、案外切羽詰まった心情吐露です。あまり日本語で読んでいなかったので、改めて読んでみると確かに立派に翻訳調で書かれています。わかりやすいとは言えません。翻訳語は翻訳語でしょうがないのですが、文章の流れがドイツ語そのままで、日本語ではないので不自然です。と色々と問題点が見えてくるのですが、日本人というのは変な傾向を持っていて、いまだに大変な舶来好みですから、翻訳調をわかりやすい日本語にした翻訳では「シュタイナーではない」とクレームがつくことはわかりきっています。舶来のシュタイナーだからこそシュタイナーは広がったのだと思っていますから、和製のシュタイナーは好まれざる客の様なもので、そっぽを向かれるのがオチのような気がします。
それはともかくとして、わかりやすいシュタイナーというのは可能なものなのでしょうか。昔、「2分で分かる」シリーズのようなものがあったように記憶するのですが、そこに「二分でわかるシュタイナー」と言うのがあっても良かったように思うのです。ただそのためには本当によくシュタイナーのことがわかっていないと書けないでしょうから、思いついた編集の人にしても人選が難しかったのかもしれません。
もちろんそれらしき本はいまだに書かれていません。インスタントラーメンですら三分かかるのですから、二分を三分にしたら可能性は広がるのでしょうか。是非読んでみたいと思っています。
シュタイナーの外部にいる人からよく耳にするのは、「シユタイナー関係の人はインテリですよね」と言うことです。確かにそんなところが外目にはあるのかもしれませんが、それは多分誤解です。
インテリでない人でシュタイナーに直感で接してくる人も多いです。インテリには意外と「ないもの欲しがり」が多いのですが、直感型の人たちは難しい翻訳調の本を読みながら「このこと、自分でも考えたことがある」と不思議な共感を感じるのです。しかも「何故シュタイナーは自分しか知らないこのことを知っているだろう」ということが起こり、そうなるとシュタイナーを知りたいという、普通の意味での学習欲ではない。自分がなぜそんなことを感じたのかが知りたくなるのです。ですからお勉強ではなく、自分探しのようなことをするようになってしまい、深入りしてしまうようです。