シュタイナーをわかりやすくするためには
シュタイナーは難しいともっぱら評判です。
言葉と言うのか、翻訳が原因です。ただ単語が難しいのであれば、調べれば理解に近づけるので、言葉、単語の問題ではなく、単語の向こうの意味している世界が見えて来ないということもあります。エーテル体とかアストラル体はそもそもの意味はと問われても何のことかチンプンカンプンで、辞書を調べても埒が開かず途方に暮れるだけです。霊が必ず出てきますが、スピリチュアルとは違って掴みどころがないのです。読んだことが本当なのか嘘なのかすら自分では検証できないことばかりなのです。
これでは本を読んでいるという充実感は得られません。したがってシユタイナーは難しいとなってシュタイナー離れということになってしまうのです。
シュタイナーは難しいことを言おうとしたわけではないのです。抽象的なことを言ったわけではなく、現実を違った観点から見せたかったのです。私たちの日常生活で起こることを違った観点から見せたかったのです。
実はそれが一番難しいことなのです。習慣、常識として身についているものがあります。この膜を剥ぐのは大変なことなのです。例えば外国で生活するようになると、新しいことを受け入れることよりも、それまでの一切通用しない習慣、常識から見放されてしまうことです。誰が悪いのではなく、外国というのは別の文化観、世界観に裏付けされている所なので、育ったところの文化や習慣や常識は一旦捨てないとそこでの生活には馴染めないものなのです。まさに「死して生まれよ」です。よく言うホームシックはある種の死と言えるものです。
同じようにシユタイナーの世界に入るためには、今までの習慣や常識を外す手続きを取らなければならないのです。外した時、自分では無くなったような気がするものです。これは日常生活はもちろんですが、たとえば学問の中で常識となっているもの、ある宗教の中で常識になっているの全てに関わってくるので、違う世界観を受け入れ、それに馴染むと言うのは大変な覚悟が必要で、外国生活の場合などはホームシックのようなことで帰国を余儀なくされることになります。シュタイナーの前での挫折は半ばホームシックのようなものです。
シュタイナーは難しいことはないのですが、簡単ではないことも事実です。一番大変なのはおそらく、習慣と常識という膜を剥がすプロセスです。ここがすんなりできれば、そのあとは意外と簡単なものです。
まずはコメント抜きに受け入れることです。初めから批判を盾にしていると、何も入ってきません。ただなんでもがむしゃらに覚えたり、信じてしまうと言うのは危険です。常に「本当かな」と言う軽い気持ちで距離を持って接するようにしておくことは大事です。
外国語で本を読んでいる時、わからない言葉をその都度辞書で調べながら読んでゆくと、途切れ途切れになってしまいます。そうなるとその本に書かれていることを読んだことにはなりません。ただしゆっくりと時間をかけて読む覚悟があれば、それなりの深い体験ができるとは思いますが。
言葉の意味がその時は分からなくても読み進んでゆくと、なんとなく文脈の中からわからなかった単語の意味がインスピレーションされたりするものなのです。シュタイナーにもそんなところがあり、わからないと諦めるのではなく、そこにしがみついていると自ずと解かれて行くようなことが起こります。これは証明できないことなのですが、経験的には確信しています。
シュタイナーはわかりやすくならないものです。しかしわかりにくいという先入観や、思い込みを外せれば、難しいという決めつけが無意味なことがわかります。わからないものはわからないままで置いておくことも一策です。