エマヌエル・フォイアマンの偉大さ

2013年1月4日

私の音楽歴の中でフォイアマンというチェロ奏者は、歌のデラー、ピアノのリヒテルと同じ様に特別な存在です。

彼の音楽を聞くことが無かったら、勿論ライブで聴くことができなかった人ですからレコードとCDでしか聞いていませんが、音楽が何をしたのか、何をすべきなのかということにちゃんと焦点が合わなかったのではないか、そんな気がします。それほどフォイアマンは大切な人で、私の音楽の要になっている人です。

 

他の二人の師匠についても同じ様に言えるのですが、フォイアマンから学んだ一番大きなことといえば、音楽の持つ静けさです。この静けさは驚くべき静けさです。他に類が無い静けさです。フォイアマン以外で彼が作り出した静けさを聞くことはないと断言してもいいほどです。

 

チェロという楽器、そしてフォイアマンが演奏している曲はすべて西洋で生まれたものです。西洋を反映しているということです。ところがフォイアマンの音楽から生まれて来るものはすこし違います。

 フォイアマン以外のチェロ奏者の演奏を聞いている時によく感じるものがあります。それは西洋です。この人たちは西洋音楽を弾いているのだということです。日本人であれ、中国人であれ、韓国人であれ、ラテンアメリカ人であれみんなチェロという西洋で生まれた楽器で西洋音楽を弾いています。しかしフォイアマンに至っては西洋だけでないものを聞くのです。

 

ではそれは東洋的なものなのかと言うと必ずしもそうではないので、東洋的と言い切るのは少しためらいがあります。フォイアマンが到達した境地を単に東洋という言い方ではすませたくないからです。

敢えて言います。西洋音楽が西洋音楽を超えたところで生まれたものということです。そしてそれは東洋的なものととても共通するものを持っているにもかかわらず、東洋という伝統のなかのものとは一線を期しているものです。ややっこしい言い方をしてしまいましたが簡単に言うと、単なる東洋ではないと思っています。しかし東洋が東洋というものを超えたとしたら、それがこれからどう言う形で表れて来るのかわかりませんが、そこにはフォイアマンが音楽で実現したものが聞こえてくるかもしれません。

彼の音楽を聞いていていつも感じるのは、「音楽は静けさを生むものだ」ということです。「静けさ」を精神的な世界からのミッションとして伝える時、音楽は単にエモーションの表現手段というものから離れて別のものになります。

 

この点をすこし詳しく言うと、信仰心、宗教性というのもはひとつのエモーションだと私は思っています。もちろん宗教性とはいってもピンからキリまであるので一色多にするのは無謀なことと承知の上で言っています。

宗教音楽というのは宗教的エモーションの表現ということです。

 音楽が持つエモーションの手段というところを否定するつもりはないのですが、それとは違うものが音楽に与えられているということも事実だと思います。

 

宗教音楽的な精神性と、フォイアマンの音楽が作り出す精神性とは別のものなのに、今までは曖昧な言葉遣いでごちゃごちゃになっている様です。エモーションとしての精神性、あるいは「聖」というものと、精神界の「聖」とは別物なのです。

 

宗教的な静けさという時には禁欲的なものが付きまとっています。私的には息苦しいものです。どうしてそれが秋ぐるしいのか、それはエモーションから来ているからだと思っています。

しかしフォイアマンの静けさにはエモーションとしての宗教性、禁欲性は全く感じられません。はつらつとした静けさと言ってもいいし、伸び伸びとした静けさ、静けさを装うことのない静けさと言っていいものです。

この静けさこそ私たちがこれから求めて行きたいものではないか、そんな気がしています。

そう言う意味でフォイアマンはただ素晴らしいチェリストというだけでなく、私の人生に音楽を通して明確な指針を示してくれた人ということです。

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