完成はあるのか
物作りをする人にとって、作品が完成したという感触は、あったとしてもわずかな一瞬でしかないものです。世の中に名作として残っている小説などは、もし締め切りというものがなかったら存在していないものと言っていい様です。作家自身が「これでよし」自信を持つて終止符を打ったものはわずかしかないのです。残りは締め切りによって完成させられたものという訳です。それでも名作は名作です。小説に限られないことでしょうが、文章の世界に一番顕著なような気がします。
何がそれほどまでに名残惜しくさせるのでしょうか。「もっと良くなる」という期待なのでしょうが、そこには「必ず良くなる」という保証はないのです。むしろいじくり回しているうちにせっかく出来上がりそうだったものが台無しになるというケースもよく見られます。
私たちが目にしている様々な出来上がった作品群は、未完成という完成品と言うことになるようです。この時の心残りのようなものはどこに行くのでしょう。次の作品に形を変えて生まれ変わってくれるのでしょうか。ここにも何の保証もない様です。おそらく次の作品は全く別のインスピレーションから生まれるのでしょうから。
しかし同じ作家の作品をいくつか読んでみると、テーマはそれぞれでも、底辺に流れている通奏低音はいつも同じ様で、そこにその作家の「人となり」を見ていいのだと思います。この「人となり」には完成という幻には属さないものの様です。それは初めから終わりがないからです。
先日ドイツの友人との話の中で、友人が「日本文化は切ることに象徴されている」ということを言うのです。彼はドイツの日本学者たちがまとめた「K i r u」と言う本を読んだと言っていました。
その時、ふと、お能の演目「井筒」の最後が脳裏を掠めました。井筒の話を知らない方はネットで井筒のあらすじを追ってみてください。藤原業平の年老いた妻が井戸の中を覗くと、そこには往年の美しさはなく年老いた今の自分の顔があったのです。その唖然としているところで能管の鋭い笛の音が鳴り響き、突然の幕となります。劇としては何も解決していないものです。突然切って落とされる幕開けです。西洋の演劇には見られない手法だと思います。
人生というのは多くがこの井筒の劇の最後のように突然切って落とされるものと見ていいのではないかと思っています。説明されて納得して死んでゆくことなんか珍しいのです。あまり綺麗に整理され、説明された人生はどこかに嘘があるものです。私などはせめてお世話になった人にお礼だけでもと考えていますが、私の置かれている地理的条件を思うときっとそれもままならないだろうと諦めています。まさに未完成丸出しです。