感覚は間違えない?
感覚は間違えない、判断が間違えるのだとはドイツの文豪ゲーテの言葉です。
物事を感覚している段階ではそのままを受け入れているのに、それを判断する段階で、私感が入ったり、先入観に惑わされたり、いろいろなバイヤスがかかったりするので、間違うと言うことです。
ところが見方を変えれば、感覚だけに頼って反応していたら、条件反射と同じになってしまい、パブロフ博士の犬は鐘が鳴ると涎が出て来るわけですから、人間的仕業とは言えないということになりそうです。と言うことは、かえって判断することで間違うところが人間らしいと言う気がするのですが、いかがなものでしょうか。
以前にも何度が条件反射と感情の違いに触れましたが、ここでも似たことを考えています。感情こそが人間的なものだと考えるのです。感情というのは主観的です。しかも人間の数だけ見方があるということで、それこそ間違いだらけなのです。世界は間違いによって成り立っていると言うことになります。
今日はネット社会です。そこからの情報過多という手強い相手が私たちを取り囲み惑わそうと目論んでいます。玉石混交というのか、極端な言い方をすればみんな間違いという有様です。
一つ一つに条件反射的に反応していては膨大な量の情報の海の中に引き込まれてただ波間を漂っている丸太棒になってしまいます。漂流しないためには自力で判断することです。舵取りです。もちろん判断も舵取りも間違うものですが、その間違いを怖がっていては洗脳の海にプカプカ浮いているだけだと見えない罠に掛かってしまいます。
間違ってはいけないという習慣は根強く私たちに染み込んでいます。多分今日の偏差値教育の中で培われたものです。ひたすら正しいことに向けられ高い点数を取ることが良しとされる訳ですから、間違ってばかりいては低い偏差値しか取れないので落伍者ということになります。正しいことがいいことなのです。しかし正しいだけでは視野が狭まって人生に幅がなくなってしまいます。となると正しいことを教える教育というのは罪深いことをしていることになります。
間違いを教える必要はないですが、正しくなくてもいいのだというおおらかさ、特に他人と違うことに鷹揚である姿勢はどこで培われるのでしょうか。
一つの提案としてはものづくりです。なんでもいいのですが、ものを作っている時というのは、基本的には自分の分身を作っていることに通じています。
ある服装デザイナーが新作を発表した時の話です。モデルさんが試着した新作の撮影のために何人かの写真家を招待して撮影会をしたのですが、後で写真を見ると、同じモデル、同じ照明と条件的なシチュエイションは同じなのに撮影した人によって違う写真になっているのです。
写真は被写体に光を当てて撮られるので同じものが撮れるかと思いきや、カメラという精密機械を通してすら、カメラマンの目、つまり主観、感性、能力そしてセンスがもろに写真には映し出されてしまうのです。
私たちは自分の判断に自信を持っていいのです。間違っているのではなく、一人一人違うというだけのことだと知ることが大事です。