ユーモアのある所
ユーモアを端的に言えば最上の真実だと言えます。
嘘のあるところ、嘘で塗り尽くされたところにはユーモアが入り込む余地などないですから、政治の場にはユーモアはごくごく稀です。ユーモアのある政治家と言って思いつく人はいないことはないですが、相当センスのある政治家でない限りユーモアとは無縁の人たちの集まりの場です。
嘘は何も政治にだけに付き纏っているわけではなく、人をたぶらかしたり、誤魔化したり、欺いたりのやり合いは日常茶飯事ですから、そんなところにもユーモアはありません。
ユーモアを必要としている人をあげてみたいのですが、不思議です、ユーモアって必要と感じるものなのかという疑問の前に食い止められてしまっています。俺はユーモアが必要だよ、私もと言う様な人はどんな人なのでしょうか。ユーモアに飢えている人です。喉が渇くようにユーモアに渇いている人です。皆さんはどうですか。
ユーモアってこちらから掴みにかかろうとすると消えてしまいます。だからユーモアを集めることはできないし、ユーモアの後を追いかけることもできないのです。ではユーモアの方からやってくるのでしょうか。その保証は全くないです。ではどこにあって、どう付き合えるのでしょうか。
ユーモアって形のあるものではないのですが、ユーモアのある人とない人と分けられる様なところはあります。ではユーモアのある様な人に「そのユーモアどこで手に入れたのですか」と聞いたら答えてくれるものなのでしょうか。多分当の本人もわかっていないものだと思います。ユーモアは結果としてあるとかないとか言えるだけの様です。
ユーモアは一つの能力と勘違いしている人もいるようです。能力のように固定したものではありません。流動的と言えば流動的ですが、それ以上に揮発性のあるもので、消えてしまいます。人に例えれば、性格よりも人格に近いかもしれません。
そう言うところはちょっと霊的なものに似ています。霊の世界にはこちらから行きたいと頑張っても、つまりがむしゃらに修行などしても行けないところなのです。今の時代はスピリチュアルが流行っていますから、霊的能力もずいぶん紹介されていますが、スピリチュアルにはユーモアが欠けています。ですから話を聞いていても、たまには興味深いものもありますが、たいていはつまらないです。霊のほうからやってきたと言う感じのものはスピリチュアルにはないようで、霊的能力を自称しているだけの話ではないのかと思っています。
私はユーモアがある人間なんです、なんて言っている人は、私は善良な人間なんです、いい人なんですと言っているような、つまらない冗談の様にしか聞こえないのです。
やっぱりユーモアは最上の真実の様で掴みきれないです。
シュタイナーは「宇宙に広がるユーモア」というのを「人類の典型」という彼の残した彫刻の中に刻み込んで、人間がちょっとでもいいので、ユーモアのことを考えるように仕向けている様です。