消える音楽、消えない音楽
音楽は消えてなくなる不思議なものです。音楽がもし、普通のもののように物質として残るとすると大変なゴミの世界が生まれることになりそうです。
昔、鳥取の砂丘を訪れ歩いていた時、案内してくださった方が、「砂丘は天然記念物ですが、歩いて壊しても一向に構わないのですよ」、とおっしゃっていました。「夜の間にまた天然記念物に生まれ変わっていますから」。
音楽の消えてゆくところは、当たり前といってしまえば当たり前ですが特筆すべき特性です。消えてもそこで生まれた印象は残っているからです。それはいつも物として目にすることができるものより強い印象だったりするので不思議です。しかし人間の性はこの消えてゆく音楽をいろいろな形で残そうと努力してきました。まず楽譜が考案されした。さまざまに変遷を繰り返しながらもしばらくはそこで止まっていたのですが、二十世紀に入ってからはもっぱら録音に頼って、レコードで音源を残す方法が生まれ、その後さらに改良されました。今はアナログではなくデジタルになっていますが基本的にはその延長にあります。
私ごとですが、随分前からライアーの録音のお誘いを受けていました。しかしいつも断っていたのですが、2017年に名古屋のある録音スタジオとの出会いがあり、そこで録音された音を聞いて自分なりに納得したと言う経緯があって、それがきっかけてライアーで弾きたい曲探しを始め、編曲しながら初めての録音に踏み切りました。その当時は「神聖なライアーの音を機械を使って録音するなんて信じられない」と批判の声がずいぶんありましたが、その後のライアーの録音を見ていると目覚ましく、あれよあれよと言うまにCDは山の様に増えいます。
当時を振り返ると、人里離れたところに住まわれている方達から、ライアーの音を聞けて嬉しい、といったお便りを沢山いただいたり、また喘息のお子さんを持つお母さんから、発作が起こると子どもは必ず「あのCDかけて」と言って発作と戦っていたなどと知ると、色々あるだろうけど、とりあえずは良かったのではないかと、自分に言い聞かせていました。
私は録音されたものに対してのアレルギーはありません。それどころかレコードなどで古い演奏をよく聞きます。むしろ好んで古いものを聞きます。理由はいくつかあるのですが、その一つに昔の演奏の方に「音が生きている」と感じるものが多いからです。
今の社会はどこを見回しても技術に取り囲まれているだけでなく、その進化も目まぐるしく大変なスピードです。音楽も例外でなく、演奏技術はどんどん進化しています。
そんな中で、古い、音も良くない昔の演奏に耳を傾けたくなるのは、音楽の中にある温もりです。昔の演奏だからいいとは必ずしも言えませんが、音にオーラを感じるものがずいぶんあります。どこからそれが生まれるのかは分かりませんが、演奏が技術に走ると音楽がどうしても物質化してしまう様です。そうなってしまうと音楽は器だけをこさえていて、中身がなくなってしまう様に思うのです。中身は生きた証ですから、技術ではどうにもならないものの様です。